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VRを語り合う3人のKさん。

きのう、Kさんがアダルト系VRの可能性について書いていた。

その後、ちょうど会う機会があったので、ぼくはそこにあんまし可能性を感じていないことを申し述べた。およそ、次のような論旨だった。

VHSビデオやインターネットの普及にアダルトコンテンツが大きく寄与したのは、有名な話だ。VRの普及を同じ構造で語りたくなる気持ちはよくわかる。おそらくVRによってエロが本物に近づいていけばいくほど「足りないもの」が顕在化されていく。たとえばカップラーメン。ノンフライ麺の技術が確立されて以降、コンビニには「お店とほとんど同じ味」のカップラーメンがこれでもかとあふれるようになった。カップヌードルやチキンラーメンが、時代遅れな、情弱な、愚民的なラーメンであるかのような言説がまかり通った。けれどもカップラーメンの味が本物に近づいていけばいくほど、本物との差異が明らかになり、「おれはパチモンを食っている感」を意識せざるを得なくなっていく。「本物そっくり」は、どこまでいっても偽物であり、代用品なのだ。一方、カップヌードルやチキンラーメンはなににも似ていない。あれは代用品というよりも「そういう本物」だ。いまさら「不気味の谷」などと聞きかじりの知識を持ち出すつもりはない。けれどもVRのアダルトコンテンツは、結局ノンフライ麺のカップラーメン的な末路をたどるのではないか。


へんなタイプのオタクではないけどオタクの心を解するKさんは、ぼくの持論についてひとつひとつ丁寧に反論していった。ここでは書けない話が大半だけど、まあ「そういう状況がある」ことと、「そういう人たちがいる」こと、そして「それは決してマイノリティとは言えない」ことを、教えていただいた。うーむ。それはそうだけど、認めざるを得ないけど、なんだかほんとにいやな時代だなあ。Kさんと別れた。


夜、慰労会的な会食の席で、別のKさんと会った。彼もまた、VRのアダルトコンテンツにものすごい可能性を感じているようだった。

ぼくは再び、上記の自説をとなえた。すると多種多様なVRコンテンツを試してみたという彼は、少しだけ賛同した。要約すると、次のような論旨だ。

たしかにアダルトは最初の感動こそ大きいものの、「できないこと」の顕在化は甚だしい。一方、自分がいちばん可能性を感じたのはホラーである。ゲームにしろ映画にしろ、あるいはバンジージャンプをVRで再現するようなアトラクションにしろ、「恐怖」とVRの親和性は驚くほど高い。あそこであの恐怖を体験した人たちは、もはや二次元世界でのホラーコンテンツには戻れないだろう。

これはかなり納得のいく話だった。


VRのアダルトコンテンツにおいては、頭の片隅によぎる「これは本物ではない」が、むなしさにつながる。一方、ホラーコンテンツにおいて「これは本物ではない」は、救いになる。「本物ではない」という命綱があるおかげで、その世界に没頭することができる。手品師を前にした観客のように、なんならもっと騙されよう、引っかかってみよう、という能動的な前のめりが起こる。


と、よく考えればぼくのイニシャルもKさんだ。

いい年したおっさんたちが、雁首揃えてなーに話してんだろうね。