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ワーケーションの終了。

ワーケーションが終了した。

それっぽく流行りのカタカナを使って説明してみたものの、実際にはただ、ドッグラン付きの貸別荘で3日間自炊生活をしていただけの話である。観光らしきものをしていないのはもちろんのこと、外食さえもしていない(あ、昨晩だけはサイゼリヤを食べた)。気分転換で仕事がはかどったなんてこともなく、むしろ仕事は停滞しまくっている。

それではなぜ貸別荘などに行ったのか。言うまでもなくこれは、世間一般でいうところの家族サービスであり、すなわち犬サービスである。

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前にも書いたことだけれど、大事な話なのでもう一度書こう。

人はしばしば、犬を家族だと言う。自分のことを「おとうさん」だの「おかあさん」だのと呼び、つまりは犬をわが子どものように扱う。

しかし、子育てと犬育てには、決定的に異なる点がある。「愛情の深さ」ではない。「ことばが通じるか通じないか」でもない。「ヒトなのかイヌなのか」は、正解ではあるものの答えとして漠としすぎている。ぼくの考える子育てと犬育ての最大の相違点、それは「ゴール地点」にある。

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子育てにおけるゴール地点は、おそらく「自立」だ。一人前の人になって、自分の力で生きていくこと。できれば幸せに、生きていくこと。自分がいなくなったあとにも、ずっと幸せでいてくれること。そりゃあ一部には医者になってほしいとか、弁護士になってほしいとか、あの大学に入ってほしいとかを願う親もいるだろうけれど、それとて根底には「よりよき自立」の願いがあるものと思われる。そして最終ゴールが自立であるかぎり、いつまでも甘やかしているわけにはいかず、厳しさだって必要になってくる。

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一方、犬を育てるにあたって人は、「自立」を目標とすることができない。だってそうだろう、犬が飼い主のもとを離れて自主独立するとすれば、それはただの野良犬であり、野犬である。さらにまた、残念ながら犬の平均寿命は人間にくらべてずっと短く、犬を育てる人にとってのゴール地点はおそらく「悔いなき看取り」になる。そんな日がくるなんて考えたくもないけど、いつやってきてもいいように「きょうの全力」を尽くす。自立する日のことなど考えず、むしろベタベタに甘やかしてやる。犬の人生は、すべて「おとうさん」や「おかあさん」の手のなかに——もしくは責任のなかに——あるのだ。

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なのでぼくは犬の「おとうさん」として、どんなに仕事が忙しかろうと、犬のために時間をとり、犬のるんるんをつくる行事を定期的に設けている。それは家族である犬との約束であり、家族としての犬を迎えるにあたって交わした自分との約束だ。

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……と、これくらい書けば「この忙しいのに3日も出かけて!」なんて罵声を制することもできるだろうか。


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帰宅したら、こんなフォトブックが届いた。