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みずからの師として誰を選ぶのか。

週末、幡野広志さんの写真ワークショップに参加した。

ワークショップに冠せられた名前は、「いい写真は誰でも撮れる」。そんなわけはないだろう、と思わずにはいられないタイトルである。だっておれ、相当に写真センスないぞ、と。朝から浅草の会場(梅と星)に出かけ、最前列で話を聞いた。

ワークショップの内容としては、おおきく「座学」「実習」「講評と実演」の3パート。開始1分から、でたらめにおもしろい時間が過ぎていく。刺激をびんびん、受けまくる。

ぼくはこのワークショップに、写真がうまくなりたくて参加したわけではない。一眼レフのカメラこそ持ってはいるものの、被写体の9割5分は犬だ。作品として発表したい欲もなく、「写真じょうずですね」とほめられたい欲もなく、ただ犬の毎日を残しておきたいと思っているに過ぎない男だ。

でも、おもしろい。幡野さんの話を、いつまでも聞いていたい。

それはきっと「一流の人が、自分の生活を賭けて何年何十年と考え、実践してきたことのエキス」みたいなものを、飲みやすいソーダ割りで提供されていることのおもしろさである。写真に興味があろうとなかろうと、「それについて真剣に考え続けてきた人」のことばは抜群におもしろいのだ。


そしてまた、「いい写真は誰でも撮れる」の意味もよくわかった。

午前の座学が終了したあと、「じゃあ、みなさん外で写真を撮ってきてください」の時間になるのだけど、これまでとまったく違う気持ちでカメラを手にする自分がいた。「おれでも撮れる」と思えた。

「バトンズの学校」を開いたときのぼくは、「プロを育てる」みたいな意識が強すぎたのかもしれないなあ、と思った。幡野さんくらいのスタンスで、それこそ「いい文章は誰でも書ける」くらいのワークショップを1日開くのは、おもしろいのかもしれないなあ、と思った。


あと、もうひとつ思ったのは「先生リテラシー」の大切さだ。

写真にせよ文章にせよ、その他の表現活動にせよ、いまの時代はあらゆるところに「先生」や「講師」を名乗る人がいる。YouTubeからツイッター、そしてnoteに至るまで、「教えたがり」の自称先生たちであふれ、それで小銭を稼ごうとする人たちであふれている。

たしかに「これから写真をやってみたい」「プロになりたいわけじゃないけど、趣味としてやっていきたい」という人にとっては、ソーシャルメディア上の自称先生くらいが、近づきやすいのだろう。

しかし、「なにを学ぶか」よりも大切なのは「誰に学ぶか」じゃないかと、最近思うのだ。みずからの師として誰を選ぶのか、その見極めの目が、なによりも大切なのだと。——幡野さんのワークショップに参加して、その思いはほとんど確信に変わった。


ぼくは教えたがりの人であるより、学びたがりの人でありたいな。