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友だちと会えないさみしさは。

友だちについて、きのう考えた。

誰か特定の友だちを想ったのではない。「どういう人のことをぼくは友だちと呼ぶのだろう」と考えた。友だちという概念について、その自分なりの定義を、考えた。

考えて、考えて、いちばん納得のいく答えは、「自分」だった。友だちになかなか会えないことのさみしさは、「自分」に会えないさみしさなのだと、ぼくは思った。

どういうことか。


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たとえば、ぼくの家には「ぺだる」という名前の犬がいる。もうすぐ4歳になる、とてもかわいい犬がいる。そしてぼくは確実に、「ぺだるにしか見せない顔」を持っている。ほかの人と会うときにも、よその犬とじゃれ合うときにも見せない「自分」が、確実にいる。もしもぺだると会えなくなったらぼくは、ぺだる本人を失うだけでなく、「ぺだると会うときの自分」をも、失うことになる。そのさみしさについてはまだ、想像することもできない。


人間についても、まったく同じだ。

ぼくにとっての友だちとは、「その人の前でしか見せない自分」がいる人、なのだ。その意味では家族も、家族や同居人である前に友だちだ。カッキーや note の加藤貞顕さんも、友だちだ。バトンズ田中さんも、ずいぶん友だちだ。認めるのは癪な気もするけれど、ときどき会社に遊びにくる今井くんも残念ながら、友だちなのだろう。彼にしか見せない顔をぼくは、確実に持っている。

そして大先輩でそう呼ぶのはおこがましいとは思いつつも、糸井重里さんも友だちだ。幡野さん、永田さん、鴨さん、泰延さん、燃え殻さん、みんな友だちだ。


そういう友だちたちに会えないさみしさは、「その人の前でしか見せない自分」に会えないさみしさでもある。いや、もう、そっちが本体だと言ってもいいくらいだ。

そしてまた、ぼくがあれこれ文章を書いているのは、「書かないと会えない自分」がいるからなのだろう。


でもねー。もっとたくさんの自分と、つまりは友だちと、会いたいよ。ゲラゲラ笑って、おいしいごはんを食べたいよ。