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ゼロベースのむずかしさ。

ゼロベースで考える、という言いまわしがある。

「過去の慣習にとらわれない」という意味で使われる言葉でもあるし、議論が煮詰まったときなどに「いったんチャラにして」とのニュアンスで使われることも多い言葉だ。いずれにせよ、これまで積み上げてきたものをすべて無にして考えよ、ということである。

これがたとえば、「ゼロベースで見なおす」であれば話は早い。政治のトップが変わったときが好例だけれども、前任者の立てていたプランについて、「その問題に関してはゼロベースで見なおす」と応じる。つまりは前任者のプランをなきものにして、おのれのプランを打ち立てる。わかりやすいし、よく見る光景だ。

しかしながら、肝心の前任者が「自分」であったとき、ゼロベースの議論は途端にむずかしくなる。自分なりに、時間と手間をかけてここまで考えた。少なからぬ人を巻き込んで、ここまで進めてきた。けれどもどうも、うまくいきそうにない。具体を考えれば考えるほど、出口が見えなくなってくる。どうやらここは、抜本的な見なおしが必要なようだ。ゼロベースでの議論が必要なようだ。

そういうとき、どこまでゼロに戻れるのか。他人の立てたプランであれば、いくらでも無慈悲に打ち捨てることができる。自分の立てたプランであっても、たとえば企画書を破り捨てるくらいのことならできる。けれども、あたまのなかに残っている企画の残像を、そのおぼろげな道筋を、すべて無にして考えることは相当にむずかしい。たとえその企画がろくでもないものであったとしても、むずかしい。打ち壊したガラクタのなかから、つい「使えそうなもの」を探してしまう。1から10までぜんぶが悪いとは思ってなかったはずのプランなんだもの。


じつはいま、ぼく自身がゼロベースに立ち返って考えるべき企画を抱えていて、なのに考えても考えてもせいぜい3ベースくらいのところまでしか戻れなくって、これをほんとのゼロに戻すのは大変なことだぞ、と頭を抱えている。3からの再設計でもいいものができそうな気もするし。

まあ、考え続けてりゃそのうち「これ以外にはありえない」って道が見えてくるのが企画というものだ。考える時間を節約せず、納得のいくところまで考えてみよう。