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書いているとしか言えない自分。

いま、本を書いている。

それが仕事だ。なにも特別なことじゃない。料理人がオムレツをつくるように、漁師がイワシを獲るように、そしてキース・リチャーズがギターを弾くように、ぼくも本を書いている。お互い、そういう仕事に就いているだけの話だ。

しかしぼくの場合、365日の毎日、ずっと本を書いているわけではない。

構想を練るとか、編集者さんと話し合うとか、集めた資料を読み込むとか、取材をするとか、それでまた構想を練りなおすとか、本をつくるにあたってはいろいろなプロセスを経たうえでようやく、「書く」がはじまる。なので、ぼくにとっての「いま、本を書いている」は、「そこそこ順調に進んでいますよ」と同義であったりする。

さて、それでどんな本を書いているのか、という話は残念ながらできない。これは守秘義務とかネタバレとか、リーガル的な尻尾を踏むからという理由によるものではなく(なんといってもまだ契約書は結んでいないのだ)、ここでうっかりしゃべってしまうと自分のやる気の風船が、少ししぼんでしまうような気がするからだ。

本日はその「秘密」の効用について書いてみたい。

たとえばここで、ぼくが次回作の構想を明かす。こういうテーマのこういう本で、こんなことを書くつもりだ、というか現在すでに半分ほど書いてる、みたいな話をしたとする。言った瞬間は気持ちがいい。なんといっても自分が最高におもしろいと思って書いている、「どこにもない話」であり「だれも知らない話」なのだ。言えば気持ちいいに決まっている。

しかし、誘惑に負けてうっかり公表したことによってそれは「だれも知らない話」ではなくなる。秘密の強度、または物語の強度が弱まってしまう。そうすると原稿を書きながら、最後のふんばりが効かなくなる。わかりやすい例を挙げるなら、たとえば村上春樹さんの次回作が火星を舞台にした近未来SFだったとした場合、その情報は発売直前まで極秘扱いにしておいたほうがいい。それは作者も、編集者も、ブックデザイナーも、出版社や書店の方々も、すべての関係者が「これが世に出たらみんなびっくりするぞ」と思いながら発売当日を迎えることで、結果としていい準備ができるからだ。事前に「村上春樹の次回作は火星を舞台にした近未来SF長編!」なんて情報が出回ったら、書くたのしみの何割かが損なわれてしまうだろう。

また、「今度、こういう本を書くつもりです」くらいのぼんやりした情報であっても、なるべく黙っておいたほうがいい。というのも「わあ、たのしみ!」とか「期待してます!」といった声にまぎれて、数%は否定的な声も聞こえてくるのがソーシャル・メディアの時代だからだ。

どんなに例外的な、聞く必要のまったくない野次だとわかっていても、気になる。心が細る。それが執筆中の人間心理というものである。「言いたい欲」に負けてそんな重荷を背負うわけにはいかない。


そういうわけで執筆中のぼくは徹底して(編集者さん以外の)ノイズを入れないようにしているのだけれど、そうすると今度は自我がむんむんに膨らむというか、「これってすごくない?」みたいな自惚れに心が支配されていく。

結果としてまあ、書いている途中には「書いています」以外なにも言わないほうがいいと知るに至ったのだ。

はい。いま、本を書いています。それ以上は、なにも言えません。