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鬼よりも悪魔よりも恐ろしいもの。

日常のなかで「悪魔」ということばは、なかなか使わない。

悪魔を使わないぶん日本人は、「鬼」を使う。むかし話にも多数登場する鬼は、なんとなく日本版の悪魔と言えなくもない。しかし、どうなんだろう。西洋の言語に暗いぼくはよく知らないのだけれど、たとえば「練習の鬼」とか「鬼教官」みたいな用法は、西洋の悪魔にもあるのだろうか。「あいつは練習の悪魔だぜ」「ジーザス、なんて悪魔教官なんだ」なんてことを、あちらの方々は言うのだろうか。……なんとなく、言わない気がする。

そもそも鬼は、「怖いやつ」ではあっても「悪いやつ」とはかぎらない。鬼と親睦を深めたり、鬼に助けられたりするむかし話も、案外多い。そして「練習の鬼」とか「勉強の鬼」、また「プログラミングの鬼」みたいな用法からも知れるように、鬼ということばは愚直さやストイックさの比喩としても重用されている。

一方、たとえば『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪魔に、愚直さやストイックさを見出すことはむずかしい。西洋における悪魔とは、ひたすらに狡猾で、底意地が悪く、そのぶん知性の高い(つまりは愚直であるはずもない)存在として描かれることが多いように思う。


キリスト者であった遠藤周作さんはしばしば、「善魔」ということばを使われていた。悪魔のように「悪」と知りつつ悪を志向する存在ではなく、「善」のつもりで善ならざる道を選んでしまう人々のことを、彼は善魔と呼んだ。

善魔は、独りよがりな正義をかかげる。そして少しでも自分に従わない者、自分に与しない者があれば、悪の協力者とみなして襲いかかる。

遠藤周作さんは善魔の特徴を、3つ挙げている。


ひとつは、「自分以外の世界を認めないこと」。

ふたつめは、「自分以外の人間の悲しみやつらさがわからないこと」。

そして最後が、「他人を裁くこと」である。


痛快なのは彼がエッセイのなかで「裁くという行為には自分を正しいとし、相手を悪とみなす心理が働いている。この心理の不潔さは自分にもまた弱さやあやまちがあることに一向に気づかぬ点であろう」と述べている、その「心理の不潔さ」ということばだ。

善魔たちのおこないを、「こちら側の善悪」で語ってはいけない。それはおのれがかたちを変えた善魔になることを意味するやもしれないのだ。そうではなく、きわめて生理的な「不潔さ」で語る。そのバランス感覚、ことばの感性にぼくは、「そうだよ! まさしく不潔なんだよ!」と膝を叩いてしまう。


ぼくが好きな人、あこがれる人はみんな、清潔な心の持ち主です。