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ふりかけをめぐる物思い。

ふりかけを禁じられた人生だった。

ごはんにふりかけをかける。茶碗一杯くらいのごはんなら、それでやすやすと平らげる。そういう子どもだった自分は、ふりかけの使用を禁じられていた。きっと「おかずも食べなさい」だったのだろう。「栄養が足りません」だったのだろう。おかげでふりかけは遠足のお弁当などでたまに遭遇する、ひときわ贅沢なレアキャラとなっていた。きっと多くの人が、そんなふうに育ったのではないかと想像する。

じゃあ、おとなになった現在、ふりかけを「おとな買い」するかといえば、それはない。ふりかけだけでごはんを食べるのはいささかさみしい気がするし、たとえば明太子や塩辛などで食べたほうが舌も心も満足する。お茶漬けを食べたくなることはあっても、ふりかけごはんを食べたくなることはほぼない。


そんな話をしてるのも、最近コンビニエンスストアで丸裸の「塩にぎり」なるおにぎりを見かけるからだ。しかもそれを買う自分がいるからだ。

ふりかけ論法で考えるなら、塩にぎりほどさみしいにぎり飯はないだろう。海苔がほしいし、具もほしい。塩鮭でも明太子でも昆布の佃煮でもいいから具がほしい。

ところが格段に安くもない値段で、塩にぎりが売られている。その素朴なおいしさを求めて自分のような人間が買っている。

じゃあ、ふりかけのおにぎりがあってもいいじゃないか。子どものころにあれほど胸をときめかせた、ふりかけのにぎり飯があってもいいじゃないか。ぼくはそう思ったのである。いまどきのふりかけは、ぼくの子ども時代よりもぜんぜんおいしくなっているのだし。ところがふりかけのにぎり飯など、どのコンビニにも置いていないのである。

もっとも、仮にふりかけのにぎり飯をつくったとしたところで、工場から出荷されるころには水分を吸ったふりかけがべちゃべちゃになる、という理屈はわかる。しかしそんなものは手づくりの弁当でも同じなはずで、ぼくらは遠足の昼飯時に、弁当箱のふたに付着したふりかけをべろべろ舐めるなどしてその贅沢を味わっていたのだ。べちゃべちゃになるくらい、いいじゃないか。包装用のビニールに付着するというのなら、海苔で巻いてしまえばいいじゃないか。

と考えてみたのだけど、たとえそんな商品がコンビニに置かれていたとしても自分は買わない気がする。「みんなふりかけ好きだなー」くらいで素通りし、わざわざ塩にぎりを買ってしまいそうな気がする。


というのも、われわれが子ども時代から持ってきた「ふりかけ欲」は、その大半がスナック菓子によって充足されているのではないか、と思ったからである。安価なふりかけが持つジャンクな味わいは、たとえばポテトチップスのコンソメ味や、うまい棒の辛子明太子味、チートスのチーズ味などによってすでに満たされているのではないか。つまり、ふりかけとは「白ごはんの駄菓子化」を図るアイテムだったのではないか。そして好きなときに好きなだけスナック菓子を食えるようになったおとなは、もはやふりかけを必要としなくなったのではないか。そんなふうに思ったのである。

じゃあ、ふりかけに生き残りの道はないのか。

おそらく、ふたつの道がある。

ひとつは、グルメなおとなに向けて超高級路線に振り切っていく道。そしてもうひとつが、白米から離れて、うまい棒あたりに「ふりかけ味」をつくる道。「白ごはんの駄菓子化」という本末を転倒させる道。

そう思って調べてみたら、10年以上前に商品化されていた。

いま店頭で見かけないということは、さほどの需要がなかったのだろう。たしかに、こうして実際に商品化されたものを見ると、あまり購買意欲をそそられない。


「ケーキ屋さんになりたい」や「パン屋さんになりたい」の夢はないけど、お菓子メーカーの開発担当者は、ちょっとおもしろそうだなあと思う。なんか、人びとの「欲」と真正面から向き合う仕事のような気がするのだ。