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マラソン仕事の走りかた。

作者もタイトルも忘れてしまったお話である。

小学生のころ、国語だったか道徳だったかの読みもので、校内マラソン大会に出る男の子の話を読まされた。マラソンが苦手な彼は、到底完走できる気がしなかった。そこで彼は、ゴールのことを横に置いて、目の前の電柱に意識を集中した。「せめてあの電柱まで」と走る。そして電柱を越えると、もうひとつ先にある電柱を見て「なんとかあの電柱まで」と走る。そんなこんなをくり返しているうちに無事ゴールにたどり着く。「おおきな目標にくじけそうになったら、その目標をちいさく区切って、目の前のひとつひとつをクリアしていくことに集中しましょう。そうすればいつか、おおきな目標を達成できるのです」。そんな教えを諭す、挿絵付きの読みものだった。

馬鹿言ってんじゃねえよ、と思ったのをおぼえている。

あの電柱まで、いや次の電柱まで、いやいやもうひとつ先のあの電柱まで、と走り続けたら、「いつになったら終わるんだよ!」と憤慨する自分が容易に想像できたからである。走れば走るほどゴールが遠のき、途方に暮れるばかりじゃないか。おれがほしいのは「ゴールに近づいている実感」なんだよ。と、そんな感じのことを小学生なりの語彙で思った。

本の原稿を書いていると、とくにその序盤、1章や2章あたりに四苦八苦していると、「はたしておれは、ほんとにこれを書き上げられるのだろうか」と思うことがある。こんなに時間をかけてこれだけ苦労しているのに、まだまだ全体の2割にも満たないじゃないか。どうすんだお前コレ、と頭を抱えることがある。いや、正直に言うと毎回、本の序盤ではそう思う。

けれども書いていればどこかで「ゴール」の実在を実感できる瞬間がある。まだ半分も書き終えていない段階でそれを感じることもあるし、最終章に突入してようやく実感することもある。あの「見えた!」や「キター!」の快感・全能感は「次の電柱まで走る」式のマラソンにはありえないものだろうし、せっかくおおきな仕事(本の執筆)に臨むなら、短距離走の積み重ねとして日々のやることを考えるのではなく、大河ドラマ的なスケールの「ひとつの物語」を考えたほうがいいと思うのだ。

ちいさなゴールを積み重ねて、結果としての距離を稼いだところで、さほど遠くには行けないのである。