本業があればこそ。
例外はある。どんな話にも当然、例外はある。
その前提で話をするなら最近、「やっぱり本業なんだよなあ」と思う。副業を持つことが推奨され、あれやこれやと多方面において活躍される方が増えてきた昨今、「やっぱり本業なんだよなあ」と考えるのだ。いかに副業が堅調そうであったとしても、埋もれた才覚がそこで発揮できていたとしても、けっきょくその人の上限というか、器のようなものは、本業でなにを成したか(つまりは成してきたか)によって決まってしまうものだよなあ、と思うのである。
以前、尊敬するある方と「人を育てること」についてお話しさせていただいた。話したというよりむしろ、一方的に質問をした。その方は「育てる」について、本質的には無理である、とおっしゃった。
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「たとえば古賀さんは学生時代、アルバイトはしていましたか?」
「ええ。引越や、倉庫番や、配送や、皿洗いや厨房や」
「そこでの古賀さん、社員の人からわりと気に入られてたでしょ?」
「ええ、ええ。たくさん飲みにつれていってもらって、店長の結婚式にまでお呼ばれして」
「そういうことなんですよ」
「どういうことですか」
「身も蓋もない言いかたになりますけど、できる人はできるんです。なにをやっても。しかもそれ、採用する側からすると、最初の1週間でわかるようなことなんです。『できる』とか『なんかいい』とかは」
「うーん」
「なにか仕事を教えて、おぼえてもらうことはできたとしても、その『アルバイト仕事でもわかる歴然とした差』は、ちょっと埋めようがないものだと思います」
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これはいまだ忘れられないやりとりで、その意味をずっと考え続けている。ぼくが会社として、採用になかなか積極的になれない理由の一端も、たぶんこのときのやりとりをうまく咀嚼しきれていないところにある。
で、最近思うようになってきたのが、冒頭の本業理論だ。
フリーランスの場合は、自分がいちばん長く身を置いた出身地、あるいは「いまの自分をいちばん食わせてくれているもの」を本業だと思えばいい。「本業じゃないところ」でおおいに活躍している人は、じつは本業のところで確固たる地位を築き、自分を鍛えている。本業がぐらぐらのまま「本業じゃないところ」で活躍しているように見える人は、おそらくどこかで壁にぶつかってしまう。器用貧乏のまま、おわってしまう。
いま、幡野広志さんの新刊『なんで僕に聞くんだろう。』をパラパラめくりながら、これは「もの書き」としての幡野さんがすごいのだというよりも、やはり「写真家」としての幡野さんの力がそうさせているんだよなあ、と思っている。
一枚の写真に、無限の時間と物語を宿らせていく幡野さん。
一枚の質問に、無限の時間と物語を読み取っていく幡野さん。
それはまったく、同一人物なのだ。