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それでも書いていく、の心。

こいつ、なんにも考えてねえだろ。

誰かの書いた文章を読んで、たまにそう思うことがある。どこかに掲載されている記事、送られてきたメール、もっともらしい文言の並んだ企画書、あるいは商品として販売されている本。ちゃんと考えることをしないまま書かれた文章は——たとえ書いた本人がそれと気づいていなくても——かなり瞬時に見抜くことができる。きみ、ここのところ、なんにも考えないまま書いたよね、と。

ぼくは note の週日更新をはじめてまだ3年半くらいだけど、それでもどうにか休まずに続けてこられた理由を挙げるとすれば、きっと就業時間中に書いているからだろう。まあ、ライターの仕事は24時間営業なところもあるのでもう少しことばを付け加えるなら、基本的に会社でこれを書くようにしてきたから、続けてこられたのだと思っている。

会社にいるとき、つまりは仕事をしているとき、当然ながらぼくのあたまは「考えるモード」になっている。その「考えるあたま」があるからこそ、なにかしらの文章を書きつづっていくことができる。たとえ心底くだらない内容であったとしても、文章がちゃんと文章であるかぎり、それは「考えられたもの」であるはずなのだ、ほんとうは。

そしてぼくは自宅で文章を書く、という行為がほとほと苦手になった。家で仕事をしないよう、書斎を設けないようにしていることもおおきいのだろうけど、いまマジで「家で書く」ができない。ぼくにとっての家は、考える場所ではなく感じる場所であり、集中する場所ではなく解放する場所であるようだ。


うだうだぐだぐだなんの話をしているかというと、いま旅行中なのである。犬と一緒に、家族旅行をしているのだ。なにひとつ「考える」ということができず、ただただ犬の一挙手一投足にわあきゃあ言ってよろこんでいるのだ。この旅行が終わるまでのあいだ、ここになにをどう書けばいいのか、戦々恐々としているのだ。

いざとなったら犬の写真をたくさん貼ってごまかします。

とってもかわいいんですよ、うちの犬。