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「飲む点滴」から転びに転んで。

最近、毎日「あまざけ」を飲んでいる。

なにかしらの健康・美容効果を求めて飲んでいるのではなく、ただ味が好きで飲んでいる。そのまま飲んでは甘すぎるので、1・5倍くらいに希釈して飲んでいる。おれのことだ、そのうちきっと飽きるだろうと思いながらも、朝と晩に飲んでいる。

いま、あまざけを販売している通販サイトにいくと、ほとんどかならずどのお店でも、「あまざけは『飲む点滴』とも言われるほど……」と、その健康増進効果が謳われている。要はそれだけブドウ糖が多いのだそうだ。で、誰が考えたのか知らないけれど、これはいいフレーズだなあ、と思う。

ぼくが子どものころ、にんじんだとかピーマンだとかセロリだとかが苦手な子どもに対して、親や教師が「薬と思って食べなさい」と叱る姿をたびたび見かけた。大人たちからすればこれは「薬ほどにも身体にいい」ことの比喩なのだろうけれど、子どもたちからすれば完全に「薬ほどにもおいしくない」の比喩としてしか響かない。健康増進効果を強調するための比喩が、味のゲロゲロさを強調する比喩に転化されているのである。当然子どもたちは、ますます食べる気をなくす。

一方、「飲む点滴」は味の比喩に転びようがない。点滴を飲んだことのある人なんて、いたとしても超少数派だろう。飲食物でないものに喩えることによって、味以外の、まさに「点滴ほどにも身体にいい」ことの比喩になっている。

じゃあ、にんじんやピーマンが嫌いな子どもに「点滴と思って食べなさい」の叱責・励ましはありえるのか。それもまた、むずかしいだろう。そもそも子どもに点滴の喩えは「???」だろうし、あまざけを「飲む点滴」と呼んでも大丈夫なのは、点滴とあまざけが「どちらも液体である」という共通項に依拠しているはずだからだ。


けっきょく、子どもに比喩を用いて(嫌いな)なにかを食べさせる、という試み自体が無茶なのだと思われる。ありえるとしたら、ポパイのほうれんそうみたいに、ドラえもんのどら焼きみたいに、ぐりとぐらのホットケーキみたいに、好きなキャラクターの大好物としてそれを描くことだろう。大好きなあの人が、おいしそうにそれを食べている。いいなあ、と感じてもらう。わたしもぼくも(それを)好きになりたいなあ、と感じてもらう。「好きになりたい」を本気で持っていれば人は、案外いつか、それを好きになれるものである。食べものだけではなく、本も、映画も、音楽も、それから人も。