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モノマネという芸について。

モノマネについて考える。

じつは『取材・執筆・推敲』という本のなかにも、モノマネに言及した箇所がある。正確に引用するのは面倒なのであやうい記憶に頼ると、「すぐれたモノマネ芸人の方々は、その人の声や表情をコピーするだけではなく、性格や思考、行動原理まで汲み取って(おもしろおかしく誇張しつつも)再現している。インタビュー原稿を書くライターもそうあるべきだ」といった話だった。

今回書きたいのは、モノマネする動機と、その力だ。

一般にモノマネ芸人の方々は、しつこい。自分がおもしろいと思う人の真似を、何度も何度も再現する。それはほとんどミュージシャンにとっての楽曲みたいなもので、ベテランのロックバンドがファーストアルバムに収録された楽曲を披露するように、モノマネ芸人さんは何十年も前から得意にしているレパートリーを披露する。

すると当然、いまのお客さんは「モノマネされている人」のことを知らなかったりする。そりゃそうだ、何十年も前の人なんだもの。

たとえばぼくは子ども時代、美川憲一さんという歌手の存在を、コロッケさんのモノマネを通じて知った。ちあきなおみさんも、コロッケさんのモノマネで知った。知らない人のモノマネなんて、本来おもしろいはずがない。似てるかどうかもわからないのだ。

ところがぼくは、コロッケさんの演じる美川憲一さんやちあきなおみさんに大爆笑していた。これはいったいなぜだろうか。


おそらくそれは、圧倒的な「好き」の強度によるものだと思う。

好きじゃないと真似しようと思わないのはもちろん、一流のモノマネ芸人さんにはどこか、「自分の好きなもの」のおもしろさを信じて疑わない、自分の目や感性に対する圧倒的な自信を感じるのだ。お客さんに理解されなくてもかまわない。だって自分は、ほんとうにこの人が好きなんだから。それくらい突きぬけた自信が感じられる。だから彼らの「憑依」は、どこか「自己陶酔」と背中合わせで、見るものを圧倒するショーになるのだろう。この人を好きな自分が好き、の迫力がすさまじいのだ。

ライターである自分もインタビュー原稿のなかに、「理解されなくてもいいからまぎれ込ませるひと言」があったりする。「どうですお客さん、似てるでしょう」のレベルではなく、ただ「この人のこれが好き」で入れている、なかば文脈を無視したことばだ。

で、実際にそうして書いた原稿のほうがおもしろかったりする。

それは「似てる」からではなく、自分の「好き」があふれ出て、その確信が読者の方々にも伝わるからなのだろう。逆に言うと、技術的に「似てる」をめざした原稿はつまらない。

創作者はみんな、もっと真剣に「モノマネという芸」を考えたほうがいいと思うのだ。

「ほぼ日の學校」で、三谷幸喜さんもそんな話をされていました。