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「みんな」じゃなくて「あの人」へ。

もしも自分がそれを任されたなら、どうするのだろう。

菅総理が、次の自民党総裁選に出馬しないことを表明した。そうかあ。そうだよなあ。うーん、そうなのかあ。なるほどなあ。なんて、多くの人と同じようないろいろを感じつつ、ふと思う。

たとえばどこかの段階で、菅総理が退任会見のようなものを開くとする。それが記者の質問に答える会見というよりは、演説に近いものだったとする。そして自分が側近の官僚だったりして、そのスピーチ原稿を書いてくれと、頼まれたとする。さあ自分だったらそれを、どんなふうに書くのだろう。

政治家にかぎらずぼくは、「原稿」の存在が見え隠れするスピーチに関しては大体「おれだったらどう書くだろう」を考えながら聴いてしまうのだ。

で、総理の退任会見だった場合。

なにをしゃべっても、けっこうな地獄が待ちかまえていると思う。任期中に「できなかったこと」として、コロナ対策についてお詫びのことばを述べたとしても、「できたこと」として、さまざまの実績を並べ立てたとしても、まあいろんな方面から矢が飛んでくるだろう。それは話す順番を考えたり、レトリックで補強したところで、避けようがないものに思われる。


……考えているうちに、どうやらこれは政治家にかぎった話じゃないぞ、と思えてきた。少なくともぼくには、「国民」に向けたメッセージなんてぜったいに無理だ。広すぎるもの、「国民」は。それは「みんな」に向けた本をつくるのがむずかしい(というか不可能な)のと、まったく同じだ。

そうして思い至る。「あの人に届けばいい」の割り切りが、どこかで必要なんだろうなあ、と。「みんな」に届こうと届くまいと、まわりからどんなひどい誤解を受けようと、自分が信じる「あの人たち」に届けばそれでいい。直接の友だちや知り合いではない、けれどもどこかにきっと大勢いるはずの尊敬すべき「あの人たち」。そういう不特定多数の「あの人たち」がいることを信じて、そこに向けて嘘のないことばを発していく。できるのはそれだけなんだろうなあ、と。


次につくる本の指針がひとつ、見えた気がした。