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なぜ知ったかぶりはよくないのか。

知ったかぶりはよろしくない、と誰もが言う。

知ったかぶりを推奨する人など、どこにもいない。それではなぜ、知ったかぶりはよろしくないのか。わりとまじめな話として、知ったかぶりの害悪について考えてみたい。

一般的に考えられる知ったかぶりの罠は、それがバレるところにある。たとえば打ち合わせの席で、相手が知らない本のタイトルを挙げる。なんとなくその場に、知らないことを恥とする空気が流れる。そこで口を半開きにして「あーぁ」「はーぁ」などの漏れ声とともに、明快な首肯にならないほどの相づちを打ちつつ、話題が次に移るのを祈念する。

当然これはバレる。相手に、そして周囲に、「あ、こいつ知らないんだな」とバレる。恥をかくまいと演じた知ったかぶりによって、余計に恥をかいてしまう。場合によってはその場で「ラストのあれ、どう思った?」などと感想を求められ、じつは読んでいないんです、と白状しなければならなかったりする。大恥をかく。これなどは、わかりやすい「知ったかぶりはよろしくない」の例だろう。

あるいは、知ったかぶりをしていると学びの機会を失う、という考えかたもあるだろう。その場で「知りません」「教えてください」と言えれば教えてもらえたはずのことを、つい知ったかぶりしてしまったせいで教えてもらえず、学び損なってしまう。じつにもったいないことだ。


しかし、そんなこと以上に知ったかぶりは危ういなあ、と思うのは「感情の喪失」である。

知ったかぶりを常習する人は、対人の場のみならず、自分に対しても知ったかぶりをするようになる。つまり、知らなかったことに出合ったとき、即座に「いや、知ってた」と思うようになる。たとえば、なんだろう。いまで言うとイスラエルとパレスチナの歴史について報道などでその一端を知ったとき、「そうだったんだ!」「知らなかった!」とは思わず、あたかも既知の情報であったかのように「うん、そうだよね」と処理してしまう。次の瞬間からはもう、知ってる人として振る舞ってしまう。

そうすると、どうなるか。生活のなかから、感動がなくなってしまうのだ。なにに接してもそれは「知ってた」ことであり、驚くような話ではないのだから、感動がなくなる。海を見ても、山に登っても、道端に咲く白い花を見ても、誰かの言葉を聞いても、感動しない。

かろうじて感動できるものがあるとすれば、映画やドラマや漫画や小説などの物語で、人や生活に感動できなくなる。それ用につくられた物語にしか、心を動かせなくなってしまうのである。


知らなかったことを、知らないと言えること。

知らなかったことを、知らないと思えること。

知っている話のなかに、ちいさな「知らなかった」を発見できること。

それがその人をゆたかにし、その人の語ることばやつくるものをゆたかにしていくのだと、ぼくは思っている。


ソーシャルメディアに流れる短文情報や、要約された「あらすじ」などでなにかを知ってるつもりになるのは、とても危険なことだ。正しい理解に至らないというだけでなく、こころの動かしかたを忘れてしまうという意味で。

知らないと言える人、知らないと思える人ほど、じつは大切なことを知っているのである。