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ローマへ続く千里の道も。

千里の道も一歩から、ということわざがある。

どれほど壮大な目標であっても、目の前のことを一歩ずつ地道に積み重ねていくことが大切なんだ、といった意味のことわざだ。この時代までことわざとして生き残っているだけあって、まったくそのとおりだと思う。「千里」と言われたときの距離のわからなさも、なんだかいい。西遊記における天竺みたいな途方のなさが、千里にはある。

しかし、このことわざを聞かされて「よーし、ぼくも最初の一歩からがんばるぞ」と心のトレッキングシューズを履きはじめる人が、どれだけいるだろうか。「千里」というゴールの果てしなさ、そして「一歩」という自分が踏み出せる歩幅の小ささに、途方に暮れてしまう人がほとんどではないだろうか。むしろやる気を削ぐための戒めとして、このことばは機能していないだろうか。

じつはこれ、言い方に問題があるのだと思う。言い方というか、ものを語る順番に。

たとえば「その一歩が、千里の道に通ずる」みたいな言い方だったらどうだろう。「千里の道も一歩から」より、もうちょっと背中を押してもらえるような気がしないだろうか。千里どころか万里の道だって、踏破できそうな気がしないだろうか。

似たようなことわざに「すべての道はローマに通ず」がある。どんな道を選んだとしても、行き着く真理はひとつなのだ、といった意味のことわざだ。だから行け、とにかく行け、迷子になってもいいからまずは行け。なぜなら「すべての道はローマに通ず」なのだから。こう言われると、とりあえず進んでみたくなるだろう。実際、海外旅行先で迷子になったときのぼくは毎回このことばを唱えている。


さて、ある意味において「千里の道も一歩から」は、逆算の発想と言える。千里先のゴールが見えている前提で、そこから逆算するようにして「きょうの一歩」を推奨する。もしかしたら歩幅も方角も決まっているのかもしれない。とても合理的な発想だ。

しかしながら実際に冒険的な歩みを後押ししてくれるのは、計算高い逆算の発想ではなく、行き当たりばったりをもろともしない「すべての道はローマに通ず」だ。動けない秀才よりも、動ける馬鹿のほうが、人間としてずっと賢い気がする。

まあ、そのへんを考えていくと最終的に「この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばそのひと足が道となり、そのひと足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ」が最強ってことになるんだよな。

きのうの2月20日は猪木さんの誕生日だったんですって。