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失言が飛び出す原因としての不安。

失言する政治家の気持ちが、少しだけわかる。

たとえばトークイベントに登壇する。雑誌の取材を受ける。ラジオの収録に参加する。あるいはセミナーみたいなやつの講師としてお呼ばれする。もう少し身近な例をあげるなら、披露宴で友人代表のスピーチを頼まれるとか、大勢の前でプレゼンテーションをするとかも、同じだ。

人前に立ってなにかをしゃべるとき、そこが荒れ果てた暴力教室でもないかぎり、基本的に人びとはだまって聞いてくれる。自分のほうをじっと見て、ただ静かに聞いてくれる。

そういう状況でしゃべっていると、ふと不安が襲ってくる。「みんな、よろこんでくれているだろうか?」「退屈していないだろうか?」「ばかなやつだとあきれていないだろうか?」などなど、さまざまの不安が襲ってくる。表情を崩さないまま押し黙っている相手を前にしゃべることは、とても不安なのだ。

そこで人は、なんらかのリアクションがほしくなる。その場をたのしんでいる証拠を、自分の話を退屈せずに聞いてくれている証拠を、求めてしまう。

結果としてつい、ジョークを飛ばす。ジョークによって笑いが起きれば、それはなによりのリアクションだ。自分の話を聞いてもらえている証拠でもあり、たのしんでもらえている直接的な証拠でもある。

ところが残念なことに多くの人は、ジョークが得意ではない。そして真面目であるはずの人が「ちょっとおもしろい話」を披露したところで、聴衆はそれが笑ってもいい話なのか笑ったら失礼な話なのか、うまく判断ができない。

そういうわけで急に「えー、スピーチとスカートは……」などと華丸大吉の漫才みたいな昭和ネタを持ち出したり、もっともっと下品な冗談を口走ったり、あるいは「その場にいない人の悪口」で場を盛り上げようとしたり、目も当てられないような失言をしてしまう。

一部の人はこれを「場を盛り上げるリップサービスのつもりだったんだよ」と擁護するのだが、違う。聴衆に向けたリップサービスなどではまったくなく、ただただ自分の不安を解消せんがための「手っ取り早くリアクションを求めることば」なのだ。

実際の話、以前のぼくも不安に駆られ、必要のない(ときに品性に欠けた)冗談を飛ばしてしまうことがあったのだけど、そこでほしがる笑いは「みんなのため」ではなく完全に「自分の安心のため」だったんだよなあ、と気づき、また黙って聞いてくれている人たちの真剣を信じることができるようになり、最近は不必要な冗談を求めなくなった。

まあそれとは別に、気の利いたジョークがぱっと出てくるスピーカーにはあこがれるんだけどね。