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「書く人」と「読む人」のコミュニケーション。

あれはおおきな勘違いだったんだなあ、と思う。

若いころのぼくは、「誤読はすべて書き手の責任だ」と思っていた。誤読を読者のせいにしてはいけない。誤読の余地があるものを書いているうちは、プロのライターとは言えない。どんな読者が読んでも「そうとしか読めないもの」を書き、そのうえで、読みものとしてのおもしろさをめざす。それが(作品と商品のあいだにあるものを書く)ライターの務めだと思っていた。人にもそうアドバイスしてきた。

しかしながらソーシャルメディアの発展以降、その考えがぐらぐら揺らぐようになってくる。

文章とは、「書く人」と「読む人」がいて成立するものだ。

言い換えるなら文章は、「わかってもらおうとする人=書き手」と「わかろうとする人=読み手」が歩み寄ることによって成立するコミュニケーションだ。書き手の側にどれほどの「わかってもらおうとする努力」があったとしても、読み手に「わかろうとする気」がなければ、コミュニケーションは成立しない。

ソーシャルメディアは、「わかろうとする気のない人たち」を顕在化させる装置として、ぼくの前に現れた。どれだけことばを尽くしたところで、そっちに「その気」がないのならコミュニケーションは成立しないよ。そういうあきらめや割り切りを迫る装置として、立ち現れた。なるほど、「誤読はすべて書き手の責任だ」というのは、いい読者だけしか目に入らなかった時代の勘違いだったんだな。そんなふうに思えてきた。

さらにまた、ソーシャルメディアのなかでは「わかろうとする気のない人たち」の声ほど、耳におおきく響いてくる。反発するのも反論するのも面倒くさく——だって相手には「わかろうとする気」がないのだ——ただ黙って、彼らの泳ぐプールから距離を置くようになる。


そういう自分もまだ、noteは続いている。

わざわざ読みにきてくれる人はきっと、ぼくの書くものへの「わかろう」を持ってくれているのだろうと、勝手に信じている。「書く人」と「読む人」の歩み寄りが、すなわちコミュニケーションが、成立しているのだと勝手に信じている。

なんだか年の納めみたいな文章になっちゃったけど、いい機会なので。