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ロマンティシズムとリアリズム。

とっても不思議なタイトルの本である。

とはいえ同時に、そうとしか名づけようのない本である、ともいえる。くわしい本の紹介はまた刊行日(ほぼ日刊イトイ新聞の創刊記念日であり、20周年の記念日でもある6月6日)にでもあらためて書こうと思うけれど、それにしてもこの本はうれしい。ぼくがどんだけうれしがっているか、わかってもらえないだろうけれど、「たぶんこれくらいうれしいんだろうな」というご想像の何倍もうれしがっているはずだ、ぼくはきっと。


ということで、別の話題を。

きのう帰宅後、録画していた『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観た。本田圭佑選手の回だ。あこがれのACミランで夢破れ、日本代表からも外された彼が、新天地としてメキシコに渡るところから、番組はスタートする。ディレクターは挑発するように「都落ちではないですか?」と問い、本田もそれを認める。標高2000メートル超のパチューカで、あたかも高地トレーニングに励むように走り込む本田圭佑。リーガMX(メキシコリーグ)では結果を残しながらも、代表戦では結果を残せない本田圭佑。

スポーツの世界、アスリートの世界は、ほんとうに残酷だ。

たとえばいま、ファンとしてのぼくは、イチロー選手が(少なくとも今シーズンは)いなくなったさみしさの大部分を、大谷翔平選手のまぶしい活躍で穴埋めしている。穴埋めできている。いつの日かフィールドに戻ってきたイチローが大谷翔平からホームランを打つような物語を夢想しながらも、それが夢物語に過ぎないであろう心の準備も整えている。

プロレスファンだった10代ころのぼくは、どんどん衰えていくアントニオ猪木を見守りながら、心のどこかでずっと「猪木が半年とか1年とかしっかり休んで体調をベストに整えれば、いまでも前田日明に勝てるはずだ」みたいなファンタジーにすがっていた。思えばあれはプロレスが「そういうもの」だったからこそ、すがり続けられたファンタジーだったのだろう。


いまのサッカー日本代表は、けっこうファンタジーに頼っているよなあ、と思う。そういう選手が多数選出されるのだと思う。

そしてきっと、今度のワールドカップでは、身も蓋もないようなスポーツのリアルを突きつけられるのだ。そういえば『嫌われる勇気』の冒頭近くに、ぼくはこんな一節を入れ込んだ。

しかし、大人になるにつれ、世界はその本性を現していきます。「お前はその程度の人間なのだ」という現実を嫌というほど見せつけられ、人生に待ち受けていたはずのあらゆる可能性が、〝不可能性〟へと反転する。幸福なロマンティシズムの季節は終わり、残酷なリアリズムの時代がやってくるわけです。

それでもやっぱり、夢を託すのがファンというものであり、かなえてくれるのがヒーローなんですけどね。