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やったもん勝ちの世界で。

やってみなくちゃ、わからない。

一般にこれは「まだやっていない段階」で発せられることばである。なにかをはじめようとは思いながらも、あんなリスクやこんなリスクが浮かんでくる。とってもこわい。うまくできるかわからない。……といったぐずぐずを抱えている人に対して、「案ずるより産むが易し」的な文脈で誰かが言う。「やってみなくちゃ、わからない」と。要するに、やれよと。

考えてみれば、ぼくのやってる仕事の大半は「やってみなくちゃ、わからない」だ。本を一冊書くときだって、最初から成功を約束された本なんてひとつもない。それどころか、書き上がるかどうかさえ「やってみなくちゃ、わからない」のである。実際にこれまで、着手してみたものの完成に至らなかった本や企画は山のようにある。ぼくのパソコンには「その他ボツネタ」という、潰れた企画や原稿の格納フォルダ(別名怪獣墓場)さえあるほどだ。

いま運営中の「バトンズの学校」にしても、そうである。

「やってみなくちゃ、わからない」とスタートさせた結果、「やってみて、わかった」ことがいっぱいある。教科書をつくるところから始めて、自分としてはこれ以上ないくらいの準備はやってきたつもりだったのに、「やってみて、わかった」ことだらけなのだ。おそらくそれは、受講生の方々も一緒だろう。

あるいは、noteを毎日書くことだって「やってみなくちゃ、わからない」のスタートだった。もっとぐずぐずに終わる可能性だってあったし、もっとおもしろいものを量産する大人気コンテンツ、みたいになる可能性だって想像しないではなかった。もう7年目になる平日の更新とその継続について、「やってみて、わかった」ことは、たくさんある。

ここで大切なのは、なにが「やってみて、わかった」のか、自分なりに考えをまとめる作業だろう。それぞれの経験を、血の通った知識に変換していく作業だろう。経験を経験のまま放置していても、なんら応用が利かないし、むしろあたらしいチャレンジを邪魔してしまうことさえある。


今年は『取材・執筆・推敲』の本も出せたし、「バトンズの学校」もはじめられたし、とことん学んでる実感があるなー。


むかしぼくは『20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本のあとがきのなかで、こんなことを書いた。いちばんの学びを得たのは自分だ、という話である。

「書く」というプロセスを通過した人間とそうでない人間とでは、対象についての理解度がまったく違うのだ。おそらく今後のぼくは、本書の執筆を通じて得た知見を元に、これまでよりずっと面白く充実した文章を書けるようになるだろう。ぼくが文章を〝武器〟呼ばわりしているのは、そういうことである。

そしてこう続ける。

だから、もう一度だけ言わせていただきたい。
書こう。
読むのもいいが、とにかく書こう。

ここでの「書こう」は、他のあらゆる分野に置き換えられる。

つまり、「やろう」と。

考えるのもいいが、とにかくやろう。


誤解されがちな言葉だけれど、「やったもん勝ち」は真理だと思うんだよ。