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公園とキャッチボール。

犬の散歩で公園に行くと、キャッチボールする人らをよく見かける。

元野球部っぽい人らは、一瞬でそれとわかるほどキャッチボールがうまい。どこに投げられても平然と手を伸ばし、見事ボールをキャッチする。いや、当たり前のようにやっているけれど、あれってほとんど曲芸ですよ。なんてことを野球素人のぼくは思う。手を伸ばす位置、手首の微妙な角度、グローブを開いて掴むタイミング、あんなふうには取れないもん。

キャッチボールは、相手がいるからこそ成立する。ビシッと投げることも、そりゃたのしいだろう。上手にキャッチすることも、たのしそうだ。それでもキャッチボールがたのしいのは、そこに「やりとり」があるからだ。

たとえば、投げるのが好きな人。剛速球を投げたい人。こういう人だって、キャッチしてくれる人が誰もいないグラウンドで、あてもなくボールを投げていたいかというと、決してそうではないだろう。せめて壁がほしいだろうし、やっぱりキャッチしてくれる相手がほしい。

ことばに置き換えて考えると、よくわかる。

誰もいないひとりの部屋で、あれこれ自分の思いをひとりごちる。自分の思いをことばにしているには違いないけれど、それだけで満足できる人は少数ではないかと思う。ときどきでいいから、自分のことばを聞いてほしい。誰かに受けとめてほしい。キャッチボールとしての第一投を、投げさせてほしい。それが多くの人の願いではなかろうか。ひとりの時間が好きなぼくだって、たまには何時間ものキャッチボールをたのしみたい。賛同も共感も別にいいから、ひとまず受けとってほしい。

日記やブログは原理的に、自分とのキャッチボールとしてはじまる。そしてブログを公開してそれを誰かが読んでくれたら——自分の投げたボールをキャッチしてくれたら——たとえ賛同が得られず、相手がボールを投げ返してくれなかったとしてもすでにキャッチボールが成立したことになる。じつはこれって、ものすごいことなのだ。

ソーシャルメディア上であてもなく、きれぎれのことばをつぶやいているアカウントを、たまに見かける。誰もいないグラウンドで、どこにも届かないボールを投げ続けているようなアカウントだ。計り知れない孤独が可視化されたようで、見ると心が寒くなる。

ボールは、つまりことばは、誰かにぶつけるためにあるんじゃない。誰かに受けとってもらうことを望んで、投げられているはずだ。投げたいのではなく、ただ受けとってほしいはずなんだ。

だったら受けとってもらえることばがどんなものか、考えてみようよ。観察してみようよ。公園に行けば、たくさんの人たちがキャッチボールしているんだから。