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「書くな!」と書く人。

ソクラテスは書かなかった。

現在ソクラテスの言葉や思想として伝えられるものは、弟子のプラトンらが書き記したものである。「ソクラテス、かく語りき」というように。ここはしばしば並べられる(ぼくも並べて語ることのある)親鸞・唯円の師弟関係とはおおきく異なるところで、たしかに有名な『歎異抄』は弟子の唯円が書いたものなのだけど、親鸞には『教行信証』などの著作がある。にもかかわらず唯円が『歎異抄』を書いたのは、親鸞の死後、彼の言葉や思想が誤ったかたちで広まっていると感じたからだった。それで近くにいた自分が、「ほんとうの親鸞」を書き残そうと思ったからだった。

一方でソクラテスは、いっさい書こうとしなかった。理由はさまざまあるのだけれど、ぼくがおもしろいなあと思うのは以下の話だ。

ソクラテスによると、文字とは「自分以外のものに彫りつけられたしるし」である。本来は自分のあたまのなかに彫りつける(記憶する)べきものを、人びとは文字を使って自分の外部に彫りつける。そうすると記憶力の訓練がなおざりにされ、忘れっぽくなる。ものを思い出すのでも、みずからの内から思い出そうとするのではなく、外に彫りつけられた文字を通じて思い出そうとする。残された書記言語(書き言葉)がほんとうであるとの前提のうえで。そんなもの、見かけ上の博識家をつくることはできても、ほんとうの知者はつくられない。

ソクラテスの意見もおもしろいのだが、もっとおもしろいのはこの話を弟子のプラトンが「書いている」というパラドックスだ。

よく知られるようにソクラテスは対話を、動的なことばを重視していた。そこで生まれるケミストリーに価値を見出していた。一方でプラトンは、師であるソクラテスの考えは重々承知し、まったくそのとおりだと納得しながらも、書いた。それはプラトンが、書くことを「自分との対話」だと捉えていたからではないかと、ぼくは思っている。いや、研究者たちのご意見は知りませんけどね。

いま書こうとしている本は、けっこうこのへんの話が裏テーマになるのかもしれません。