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編集者という仕事。

編集者という仕事について、ちょっと書いてみたくなった。

ときどきぼくは、この note にカッキー(柿内芳文氏)の話を書く。ありのままに、起きたことをそのままに、とはいえほんのちょっとだけおもしろくして、カッキーの話を書く。するとどうも、彼のことを「ノリやテンションだけで生きている単細胞な男」みたいに勘違いしてしまう人がいるようだ。まあ、とくに彼を弁護するつもりもないけれど、けっこう大事な話だと思うので書いてみたい。


結論から先に言うと、編集者はテンションが命である。

カッキーはもちろんのこと、ピースオブケイク代表の加藤貞顕さん、またコルク代表の佐渡島庸平さん、あるいは加藤企画編集事務所代表の加藤晴之さん。ぼくが一緒に本をつくってきたなかでも「この人はすごいなー」という編集者さんたちは、ひとりの例外もなく「対作家」時のテンションが高い。声もおおきいし、メールは感嘆符だらけだし、ほめるときのことばもシンプルだし、それらにいっさいの照れがない。「おれのすごさ」や「おれのかしこさ」を、少なくとも作家に見せつけようなんて気は、まったくない。自意識がないともいえるし、誤解や失礼を承知でいえば「対作家」時の彼らは、ほとんど「バカ」と見分けがつかないほどである。

もちろん彼らはみな優秀な編集者であり、「すごさ」や「かしこさ」をほかの誰よりも持っている人たちだ。そしておそらく、本来はテンションが低かったり、内向的だったり、プライドが高かったり、自意識の海におぼれていたりするはずの人たちだ。

けれども作家と向き合うときの彼らは、テンションが高い。これは別にへんな「作家ころがし」のテクニックなどではなく、単純に自分が信じた作家への敬意のあらわれだと、ぼくは思っている。


作家やライターの側からすると、編集者は「いちばん最初の読者」である。言い換えるとその時点では「世界そのもの」である。ひとりの部屋で書いてきて、不安だらけのまま送った原稿を「世界」はどう読むのか。それが作家から見た、編集者の反応なのである。

そこで、いかにもかしこい「分析」を披瀝されたところで、なんにもうれしくない。「うわー、この編集者さんはすごいなー」なんて、マジでひとつも思わない。というか、思ってる余裕など1ミリもない。ずっと暗闇のなかを歩いてきて、不安しかないのだ、こっちは。ことばよりも光が見たいのだ、光のような、そのテンションが。


というわけで、ぼくがここに書くカッキーやほかの編集者さんが「バカ」に見えたとしたら、それは彼らがとんでもなく優秀な証なんです。

相手がほんとのバカだったら書かないし、二度と仕事しないしね、ぼくは。