ぜんぶバレている、という前提で。
こういうの、おれも書きたいなあ。
おもしろい本を手にすると、半分も読み終わらない前にそう思ってしまう。「そうそう、こういうのが書いてみたかったんだよ」と思ったり、「こういう書きかたもあるんだよな。これは一度もやったことないな」と思ったり。とくにノンフィクション系の翻訳書を読んでいると、そのスタイルの違いからそう感じることが多い。
このとき大切なのは、感覚的な「こういうの」の正体を、きちんと言語化することだ。ぼんやりと感じる「こういうの」が持つ構造やスタイル、あるいはそれを構成する材料などについて、その手間も含めてしっかり理解しておかないと、上辺だけの模倣に終わってしまう。
たぶんいまはいろいろ違うのだろうけど、ぼくが20代のころ、小説の新人賞を担当していた友人の編集者が、応募作に「村上春樹っぽい『僕』の恋愛小説」がいかに多いか語ってくれたことがある。「別に自分は村上春樹っぽい文体のすべてを否定しようとは思わない。でも、そういう応募作の9割は、それ(っぽい文体)だけしかないんだ。容れものだけで、中身がなんにもないんだ」。彼はそんなふうに語っていた。
SNSが生まれて以降、内実を伴わない「それっぽいなにか」を得意顔でバラ撒く人が増えてきた。傍目にはそれが支持されているように見え、あんなものにだまされるのかと苦々しく感じている人も多いんじゃないかと思う。
でも、インターネットっていいなあ、と思うのはそういう底の浅さは、確実にバレている、ということだ。
しかもおもしろいことに(おそろしいことに)、こころある他人はわざわざ「お前、ほんっとスカスカだな」などと直接の指摘はしてくれない。なにも言わないまま「あー、またやってるよ」「また言ってるよ」と黙ってあきれているだけだ。もちろん、こんなことを書いているぼくに対して同じことを思っている人も、たくさんいると思う。ぼくの底の浅さも、バレる人にはバレているのだと思う。それがインターネットというものの広大さだ。
ただ、「バレてない」という前提で生きている人と、「ぜんぶバレている」という前提で生きている人とでは、その人への好感の持ちかたは、ぜんぜん違ってくる。
ぼくは「ぜんぶバレている」を知っている人が好きだし、自分もその前提を忘れないようにしなきゃな、とわが身を振り返るのだ。
(模倣や、その先にあるあたらしいことへのチャレンジの話を書こうとしたのに、ぜんぜん違う結論になっちゃいました)