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読まれたら困る下書きと。

「誰それの手紙が発見された」みたいなニュースをたまに目にする。

戦国武将だったり、政治家だったり、芸術家だったり、文豪だったりの手紙(またはその下書き)である。たいてい専門家による「当時の○○を理解するうえにおいて資料的価値は高い」といったコメントとともに報じられる。遺稿ならともかく手紙まで「発見」され、資料としてコピーされ、さまざまの人に読まれるわけだ。難儀な人生だよなあ、と思う。

それでこれ、いまの時代だったらどうなるのだろうか。

たとえばぼくのGmail「下書き」フォルダには、500を超える下書きが保存されている。その大半は宛名のない個人的メモ書きだけども、「書いてはみたけど出さなかったメール」も当然ある。一時の感情にまかせて、あけすけな文言を並べたメールを読み返しては、心の底から「出さなくてよかった」と思う。研究資料として後年に「発見」される手紙とは、こういう類いのものなのだろうか。

また、「発見」というからには裏アカウント・サブアカウントの類いもその対象になるだろう。社会的に尊敬される立場にあった善人が、じつは極悪な裏アカウントを持ち、ひたすら物騒なことばをつぶやいていた、みたいな「発見」だってあるのかもしれない。


できるだけ裏表のない自分でいたいなあ、と思う。

それは人としての正しさや美しさの問題ではなく、生きかたとしての「ラクさ」によるものだ。読まれて困る下書きが一通もなく、見られて困る表情が一瞬としてない人生を生きることができたら、どんなにか心地よいだろう。

けれどもぼくには読まれて困る下書きが何百となくあり、見られて困る表情もわんさかあり、つまりは明かすつもりのない秘密をたくさん持っている。秘密は秘密として持ちながら、その外側にある嘘をなるべく減らしていく。それが自分の荷を軽くする唯一の方法なのかもしれない。秘密と嘘は、違うのである。