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いまさら考えるツイッターのいいところ。

有料版のツイッター、Twitter Blue を申し込んだ。

ツイッターなんかに課金するのか。無料であることこそがツイッターの価値ではないのか。そもそもお前、ツイッターそんなに使ってないじゃん。……といった逡巡は当然あった。けれども認証アカウントとなることによって、今後の告知活動にプラスが生まれるのなら、つまり来月発売の新刊『さみしい夜にはペンを持て』に触れてくれる人がひとりでも増えてくれるのなら、自分のせせこましいこだわりは全部捨て、いくらでもブルーしてやろう、と思ったのである。それくらい大事な本なのだ、今回はとくに。

というわけで本日は、ツイッターの「いいところ」について考えてみたい。ふだんは「わるいところ」を口にすることも多いぼくが、あえて「いいところ」を考えてみたい。いいところがあるから、いまでも続けているのだし。

ぼくにとってのツイッターは、もともと「友だちとのおしゃべりツール」としてはじまった。フォローしたりされたりしてるのも、実際の友だちがほとんど。90年代後期で言う「BBS」に近い感覚で、ツイッターをはじめた。

しかし段々と「あの有名人」をフォローすることも増えていくことになる。作家さんやミュージシャン、役者さんにスポーツ選手、あるいは政治家や経営者など、さまざまな人をフォローしていく。海外の「あの人」だって、その対象に入ってくる。

さらにもうしばらく経つと「まったく知らなかった無名人」をフォローするようになっていく。ここでの無名人とは、テレビや新聞などのマスメディアを経由して知る機会のなかった人、くらいの意味だ。それぞれの世界では有名な方だったり、立派な活動をされていたり、周囲の人気者だったりする方がほとんどだ。

そういうまったく知らなかった人の投稿を見ていて、「いいなあ」と思う。「この人、好きだなあ」と思う。「この人の言うことは信頼できるなあ」と思う。刺激物だらけなタイムラインのなかで、とてもありがたい「でも大丈夫だ」の養分をいただいている。「いろいろ大変な世のなかだけど、この人がこうしてまっとうに生きていてくれているのだから、まだ大丈夫だ」。大袈裟に思われるかもしれないが、そういう感覚をもって彼ら・彼女らの投稿に接している。社会になにかを訴えんとするような「ご意見」ではない、とても個人的で日常的な「報告」に、ほっとさせていただいている。

さて。こうした「いいなあ」とか「好きだなあ」とか「信頼できるなあ」はなぜ気持ちがよく、また大切なのか。


ぼくらが(恋心ではない)好感を抱く相手とは、とどのつまり「自分と気が合いそうな人」なのだ。「いいなあ」とか「好きだなあ」とか「信頼できるなあ」の根っこにあるのは、「わたしと気が合うなあ」や「わたしと一緒だなあ」の感情なのである。

つまり、誰かのことを「いいなあ」と思うときのぼくらは、自分についても「いいなあ」と思っている。自分に対する無意識下の「好き」が、誰かに対する好感や信頼となって立ち現れている。それがソーシャルメディアのおもしろさであり、ツイッターのいいところなのだと、ぼくは思う。

ぼくのツイッターや noteも、誰かにとってのそういう場所になれるといいのだけれど。