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ことばに引きずられないために。

これは現在取り組んでいる本に詳しく書くことだけれど。

書き上げた原稿を手直し(推敲)するにあたってぼくは「すべての原稿には過不足がある」との前提に立って、それを読み返す。文章の過不足とはなにか。具体的に言えば「盛り」と「漏れ」である。推敲される前の、勢いで書いただけの原稿にはかならず「盛り」があり、「漏れ」がある。これはもう何十年書くことを仕事にしていようとつきまとう宿痾のようなものだ。

このうち注意すべきは、圧倒的に「盛り」である。

原稿を書いていると、人は簡単に周囲の景色が見えなくなってしまう。没頭とか没入と言えばカッコイイ感じもするけれど、客観性を失い、自己批評の目を失い、ありていに言えば自分に酔っていく。ライターズ・ハイとも呼ぶべき、一種の躁状態におちいっていく。

これは「集中力が極限まで高まったことによってもたらされる忘我」では、ない。むかしはそう思っていたけれど、違う。そこに集中するのは結果であって、人は自らのことばに引きずられていくのだ。自らが書いたことばに引きずられていった結果、酩酊や躁状態におちいっていくのだ。

なにかの文章を書いているとき、それをおもしろくするため、刺激を強めるため、耳目を集めるため、ほんの少し、それこそ1文字や2文字の単位で、表現を「盛る」。盛ったことばに引きずられ、次の段落ではさらなるおもしろさ、すなわち「盛り」を自分に課す。おもしろい。とても、おもしろい。ことばが思考をいざない、感情を荒立て、未知なる自分を引き出していく。書きはじめたときには思いもしなかった展開を見せ、自分でも驚くような結論に行きつく。それがライターズ・ハイの正体だ。

平時において、これはとてもおおきな推進力となってくれるし、たぶん優れた書き手のほとんどはこの力を利用して原稿を書いている。平々凡々たる自分の外部へ、越境せんと試みている。あとは推敲の段階で注意深く「盛り」と「盛れ」を整えていくだけだ。

しかし、いまのように社会全体が混乱状態になってしまったとき、「書くこと」は非常に危うい。ことばを盛り、盛った自分のことばに引きずられ、より過激でより攻撃的な思考におちいる可能性が、ものすごく高いのだ。自分のことばに引きずられない人、ことばとこころを完全にコントロールできる人なんて、ぼくも含めてほとんどいない。


「こういうときだから、なにかを書こう」とか「自分もなにか、書いてみよう」という気持ちは、わからないでもない。ソーシャルメディアや note に自分の思いを書いていこう、と思いたくなるのはきわめて自然なこころの動きだ。

でも、はっきりとぼくは、中途半端に書かないほうがいい、と言っておきたい。

書くことは、知らず知らずにその人の思考を変えてしまうのだ。もしも公開を前提に書くのなら、せめて1時間や2時間でいいから、書いたものを放置しよう。そして熱いコーヒーでも飲んで、ソファで横になったりして、ほんのちょっとでも切り替えたあたまで読み返そう。


正直ぼく自身、4月は更新を止めたほうがいいかな、と思いはじめている。誰かを傷つけないために。そして自分のこころが、変な方向に引きずられていかないために。