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最近温めている予感。

昨夜、風呂から上がった直後のことだった。

やばい、と思った。いまはやめてくれ、と思った。けれども来てしまった。服も着てないのに、来てしまった。瞬間的にふっと、なにか「いいこと」を思いついたのである。割と大きめの、「いいこと」を。

まったく健忘とは恐ろしいもので、瞬間的な思いつき、とくに予感にも似たアイデアの欠片は、よほど大切に扱わないと10秒もたたないうちに忘れてしまう。「うん、これだけ考えたから忘れないだろう」と半信した途端、見事に忘れてしまう。それだからして、できればメモをとりたい。ところが風呂上がりの脱衣所にメモ帳はなく、昨夜の風呂はシャワーだったためスマホも持ち込んでいなかった。けっきょく、服を着て髪を乾かしリビングに入ったころには「なんか思いついた」という記憶だけが残り、「やっぱり忘れてしまった」の後悔へとつながった。

それはそれとしてぼくの場合、「いいこと」や「アイデア」は、予感のように降りてくることが多い。

完成した姿でバーンと降りてくることはなく、なにかひと言、ことばが浮かぶ。造語や新語でもない、どこにでもあるはずのことばだ。

そういうことばであるにも関わらず、「これ、しっかり掘っていけば『いいこと』になりそうな気がする!」と予感する。そして掘っていく時間や精神のゆとりがあれば、たまに予感が当たる。掘ったところでどこにも行き当たらないことも多い。まさしく予感だ。


このところ、大事に温めていることばがある。

隠すほどのことでもないから書いておくと、日々いろんなところでその効用が語られている「好奇心」ということばだ。

この好奇心ということばを、もう少しだけ展開させていけば、「ものすごくいいこと」に手が届きそうな気がしている。長年の疑問というか、ついぞ解けないままになっていた難題の答えに、たどり着きそうな気がしている。

ぼくにとって、いちばん身近な好奇心のお手本は、うちの犬である。犬のような好奇心を持ちたいと、常々思っている。

しかしながらうちの犬をよくよく観察していると、その好奇心は「臆病さ」とセットになっている。犬見知りのはげしい彼は、よその犬に無関心であることができず、過剰なまでの好奇心(というか警戒心)を持っている。

好奇心と臆病さ。このあたりを自分やほかの人間に置き換え、もう少し掘り下げていくと、なにか「ものすごくいいこと」の発見に至りそうな気がしているのだ。