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継続するっていうのはさ。

このところ、毎日せっせと添削に励んでいる。

「バトンズの学校」で受講生の方々から提出してもらった課題を、ひたすら添削している。けっこう長めの総評も、別に書いている。戻すのが当初の予定からおおきく遅れてしまっているけれど、ここで手を抜くよりは、遅れたほうがいいだろう。サボる姿だけは、ぜったいに見せることができない。そんな判断から今日も、せっせと添削に励んでいる。


で、こういう作業に励んでいると、書くことをしたくなる。

自分の原稿、自分の本を、書きたくなる。書くのが好きだから、ではない。「次はこんな本を書きたいな」「そこにはこんな話を入れたいな」とかをあれこれ考えている時間がいちばんたのしいという、それだけの理由だ。

『取材・執筆・推敲』が重たい本だったので、次はなるべく軽い本にしたいと思っている。新書も悪くないけれど、できれば四六判(一般的な単行本)で、読みやすくて軽い本。なんらかのノウハウ、つまりは学びの要素も必要だけど、エッセイとしても読んでいけるような本。ぼんやりそんなことを考えつつ、そこに入れるべき「あの話」や「この話」を夢想したりしている。


一方、この note については「書きたいな」を思うことが、めったにない。かといって「書きたくないな」も、とくにない。「今日はおれ、なにを書くんだろうな」と、他人ごとのように待っている感覚が、いちばん近い気がする。ファンみたいにワクワクしながら待っているのでもなく、ただぼんやり待っている。書き上がったものを読んで、「今日はイマイチだったね」なんて優しく肩を叩く。もうそんな場所だ、ぼくにとっての note は。

それでもときどき、「これ、よく書いたねー」と何度も読み返したくなる回が出てくる。「ちゃんと書きなおせばこれ、立派な原稿になるよ」と思える当たりくじみたいな回が、たまに出てくる。100本に1本とか200本に1本とかの割合だけれど、あるにはある。

当たりくじを引くためには、山ほどの外れくじを引く必要があるのだ。なにかを継続するって、そういうことじゃないのかな。