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「言ったもん負け」の世のなかで。

問題発言、とされる発言がある。

わかりやすいところでいえば、政治家の問題発言だ。「その言い方はいかがなものか」という程度のものから、明らかな差別的言動まで、問題発言とされるものの幅は広い。政治家以外であっても、公職にある人、芸能人や企業経営者をはじめとした社会的に影響力のおおきい人などもまた、しばしばソーシャルメディア上の「問題発言」が槍玉に挙げられ、大炎上を招いたりする。

発言主の多くは、おそらくわかっている。自分の物言いが毒や刺激を含んでいることは、うっすら自覚できている。それでも、そうした毒や刺激こそが「率直なわたし」のあらわれであり、場合によってはこれこそがユーモアなのだと考えている。そして「この流れだったら」「この場だったら」「この面子だったら」それが許され、むしろウケると考えている。

もちろん現実世界はそんな甘い場所ではなく、これだけ相互監視装置としてのソーシャルメディアが行き渡った昨今、もはや「ここだけの話」などありえない。それはメッセンジャーアプリのやりとりであっても、クローズドな会合であっても、極端な話仲間内での飲み会であっても。

なので最近、とくにデジタルネイティブ世代の人たちを見ていると「言ったもん勝ち」ならぬ、「言ったもん負け」とでも呼ぶべき風潮を感じる。匿名で登録したソーシャルメディアならともかく、実名においては「言ったもん負け」。生まれついての自衛策として、「言わない」を選んでいる。


たしかにぼくもソーシャルメディア上では——諸々の面倒を避けるため——余計なことを言わないようになってきた。みずからにそれを課しているというよりも、自然とそうなってきた。そして明らかな「余計なこと」を言ってトラブルに巻き込まれている人を見ると、シンプルに「そんな余計なこと、言わなきゃいいのに」と思ってしまう。

でも、でも、でもでもでも。

おそらく表現とは、そしておもしろさとは、「わざわざ言わなくてもいい、余計なこと」の先にあるものなのだ。ただでさえおもしろみの少ない自分が今後、正しいこと、意味のあること、社会に有用なこと、教訓めいたことしか言えなくなってしまったら、いよいよつまらない人間になるだろう。

「言ったもん負け」の時代に必要なのは、雑談だ。何時間と止まることのない雑談としての雑談に、ぼくは飢えているのだ。