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プロフィールを書こうとしたら。

プロフィール、を書いてみようと思う。

『さみしい夜にはペンを持て』が発売されて以降、さまざまにエゴサーチを試みているのだけれども、どうやらぼくは「名前の読み方がわからない」と思われ、「どんなやつだか知りたい」とウィキペディアで調べられたりしているらしい。しかしウィキペディアに書いていただくほど華々しい経歴もなく、自分でここにプロフィールを書いてみたい。

1973年の8月、福岡県福岡市でぼくは生まれた。正確には福岡市東区。当時どんな家で暮らしていたのか、まったく記憶はない。転勤族の家庭に生まれた関係で、そこから10数回の引越をくり返すことになる。

中学卒業後、福岡大学付属大濠高等学校に入学した。現在は共学になっているらしいが、ぼくがいたころの大濠はバキバキの男子校。サッカー部に入部し、3年時には全国高校サッカー選手権大会で全国大会に出場した。といっても、ぼくは補欠のベンチメンバー。あまり自慢できる経歴でもない。

高校卒業後は、九州産業大学の芸術学部に進んだ。映画監督になりたい、映画の仕事に就きたい、との思いから選んだ学部だった。しかし卒業制作として映画をひとつつくったところで、自分に監督の才がないことを知った。これはもう、絶望的にその才がなかった。

のちに知り合った映画監督から「自分に才能がないと自覚できるのも、才能のひとつですよ」と、妙な慰められ方をしたものの、いかんせん気づくのが遅かった。だって気づいたのは卒業制作が仕上げに入った時期なのだ。映画の道に進むこと以外なにも考えていなかった自分の前に、就職という難題が降りかかってきた。

小説を書こう、と思った。映画の脚本には自信があったので、これを小説にすればいいんだ、と思った。小説だったらひとりで書ける。監督のように、たくさんの人とイメージを共有したり、現場で指示を出したりする必要もない。ひとりで完結できる小説は、おれにぴったりだ。そう思った。

しかしながら小説家という職業は、就職活動によってゲットできるものではない。卒業は間近に迫り、無職になることは避けたい。そこでとりあえずの就職先として、接客業に狙いを定めた。接客の仕事を通じて人見知りを克服し、小説は夜の時間に書いていけばいい。まあ1年もあればなにか書き上げるだろうから、それをどこかの新人賞に応募して、あとのことはそこから考えよう。当時はそれを、すばらしく綿密なプランだと思っていた。

就職先に選んだのは、全国にチェーン展開するメガネ屋さんだった。アパレル、居酒屋、靴屋さん。視察と称してさまざまな接客業のお店を下見した結果、メガネ屋さんがいちばんラクそうに見えた。優雅にレンズを磨いている姿しか記憶に残らなかった。

ところが就職したメガネ屋さんは「超」が50個つくほど体育会系のハードな会社で、新入社員研修と称して本社の合宿所に詰め込まれ、朝から海岸を走ったりするような会社だった。研修期間を終えて店舗に配属されたあとも、終電がなくなるまで毎日残業続きだった。定時まで優雅にレンズを磨き、帰宅後に小説を書くというプランは見事に崩れ去った。

さらに、根っこが体育会系であるぼくはこの会社でメキメキと頭角を現し、全国に7人だか8人だかの幹部候補社員に選出されてしまった。いやいや、それは待ってくれ。おれは人見知りの克服のため、小説を書き上げるまでの期間限定で、ここにきただけなのだ。周囲の期待から逃げるように、退職届を提出した。

さあ、いよいよ無職である。フリーである。その噂を聞きつけて、というわけでもないだろうが、映画好きの先輩から声がかかった。「今度、名古屋でインディーズ映画を撮るんだけど、手伝いにこないか」。大喜びで駆けつけた。新婚間もない先輩の家に転がり込み、一ヶ月近く居候の身で映画の照明スタッフとして働いた。その後、第一回のフジロックが開催され、こちらにも深夜バスで駆けつけ、無職ライフを大いに満喫した。

とはいえ、いつまでも無職を続けるわけにもいかない。短編小説はいくらでも書けるものの、応募に足るような渾身の長編・中編を書こうとすると、なかなか筆が進まない。そこでひとまず、出版社に就職しようと思った。小説を書きたいのだったら、雑誌の原稿くらいすらすらと書けるようになっておかないとダメだろう、と思ったのだ。

地元の出版社というか、ほぼ編集プロダクションのような会社に就職した。その会社は、東京にもオフィスを構えていて、そちらでも仕事のほうがおもしろそうだった。入社三ヶ月ほどで転勤願いを出し、上京した。

しかし上京から半年ほど経ったあるとき、社長と大喧嘩の挙げ句、会社を辞めることになる。もう故人となってしまったけれど、どこの馬の骨ともわからない元メガネ屋の無職男を拾ってくれた社長には、いまでも強く感謝している。ああいうふうに、学歴や経歴に関係なく誰かに手を差し伸べられる自分でありたいと、いまでも思っている。

会社を辞めてフリーになってからは、主にムック本や雑誌のライターとして活動していた、いや、正確に言うとフリーの初仕事は日帰りバスツアーのチラシに掲載する案内文だったし、大学の入学案内をつくったりしたこともある。それでもまあ、ムックと雑誌がメインだったと言って差し支えない。

30歳になるころ、はじめて本(書籍)をつくった。それまで数百字の紙幅で書いていた原稿が、一気に10万字を超える量となり、ものすごくたのしかった。「たくさん書ける」は、ぼくにとって自由と信頼の象徴だった。

そして30代以降は、もっぱら本のライターとして生きていくことになる。その間に、100冊ほどの本を書いてきた。

さらに2012年、初の自著となる『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を刊行。2013年には『嫌われる勇気』が出版され、そのあたりから自著を書く割合が増えていった。2015年に株式会社バトンズを設立し、『嫌われる勇気』から10年後の今年、『さみしい夜にはペンを持て』を出版した。

……と、ここまで書いてみて思ったのは「こんなの、ぜんぜんプロフィールじゃねえ」であり、「最近の話は書きにくい」である。

最近の話、いや本の仕事をはじめた30代以降の話をしようとすれば、いまもつながっている友人や関係者も多く、迂闊なことは書けない。よかれと思って書いたことが、だれかの気分を害することだってありそうだ。

一方、20代までの話であればお互いの関係や記憶も薄れ、そこそこ自由に書くことができる。事実をベースにしながらも「おれの記憶」として書いていける。

うん。一部の中高年がむかしの思い出話ばかりしたがるのは、まぶしい過去をふり返って悦に入っているというよりも、その「話しやすさ」がおおきいのかもしれない。誰にもじゃまされないストーリーを語れることが。