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ことばの根っこをどう育てるか。

ゲスいことは書かない。

もしも若いライターさんに文章力向上についてアドバイスを求められたとしたら、ぼくはそう答えるかもしれない。テクニック以前の、身の置き場として。自分がどういうフィールドで切磋琢磨するかの話として。たぶんこれ、多くの人が思っている以上にたいせつな話だと思う。

たとえば、「あの人、書いてることはゲスくて賛同できないことも多いんだけど、文章はうまいんだよなあ。なーんか読ませちゃうんだよなあ」というライターさんがいたとする。

多くの場合それは「ゲスいことを書いているのに、文章がうまい」のではなく、「ゲスいことを書いているからこそ、文章がうまく見える」のだと、ぼくは思っている。

誰かを責めたてることば、人の失敗をあざ笑うことば、足を引っぱるためのことば、いわゆるところの罵詈雑言。冷笑、失笑、揶揄の苦笑。これらのことばはおもしろいくらいに多種多様であり、スリリングであり、ゆえに痛快であり、刃物のように機能する。

他方、「いいこと」や「あかるいこと」、そして「前向きなこと」は、なかなか語彙に乏しい。「きょう、こんないいことがあった。うれしかった」を表現することばを人は、おそらく数パターンしか持っておらず、ゆえにどれも月並みで退屈な響きをもってしまう。善良な人に対して「あの人はいつも『いいこと』ばかりを言っていてつまらない」の感想が出てしまうのは、そこで語られることばのバリエーションが乏しすぎるからなのだ。構造としてつまらないのだ。「いいこと」は残念ながら。

ぼくの場合で言っても、愛息であるところの犬について「かわいい」以外のどんなことばで表現すればいいか、いまだわからなかったりする。結局それで「かわいい、かわいい」と連呼したりする。


だからね。

ゲスいことばのフィールドで、縦横無尽に膨大なことばを操ったつもりになったところで、ことばの達人であるかのように振る舞ったところで、そこで育つ根っこはほとんどないんですよ。それよりも、「いいこと」や「あかるいこと」、「たのしいこと」や「前向きなこと」、そんなもともとの語彙に乏しいフィールドで、その対象や心情をどう言語化するかにじたばたしているほうが、ぜったいに育つ根っこは太いんです。


ほら、いろんな場所で引用されるじゃないですか。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

トルストイ『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳)

これは「ことば」についても同じことが言えて、ネガティブなことばのほうが多種多彩なんですよ。おもしろい表現、いくらでも思いつくんですよ、しかも簡単に。だからこそぼくは、その安直な道に足を突っ込みたくないな、と思うわけです。