見出し画像

ぼくは日記を書かない。

ここの note を毎日書きはじめて、もう8年目になる。

時間の感覚とはおそろしいもので、ここまでくれば案外簡単に「とりあえず10年続けてみようかな」と思えるし、人にも言える。実際には3ヵ月続けることだってむずかしくて面倒なのに、8年やったんだから10年くらい行けるだろ、と思えてしまうのだ。

で、10年続けたらどうするか。note の更新をやめたあと、どうするか。

純然たる「日記」をつけてみようかな、と考える自分がいる。note でもブログでもない日記。誰に読ませるでもない、個人的な書きもの。日記についてはこれまで何度もチャレンジし、そのたびごとにくじけてきた。少なくともぼくの場合、毎日の note と日記を同時にこなすのは無理みたいだ。やるとしたら片方。note の更新をやめたあとだったら、日記を続けることもできるのかもしれない。

でも、けっきょくは続かないんだろうなあ、と思う。

まず、誰に読ませるでもない日記であれば、固有名詞が増えるだろう。知人や友人、家族やその他の固有名詞が増えるのはもちろんのこと、「おれの界隈」でしか通じないジャーゴンも、なんの説明もないまま遠慮なく、バンバン登場しまくるはずだ。

さらにまた、ネガティブな言葉が増えるだろう。愚痴や悪口も言い放題で、日々の鬱憤をぜんぶ、そこに吐き出そうとしていくだろう。誰にも見られないのだから、なにを言っても自由だ。

そして文章というよりは、走り書きが増えるだろう。しっかりと考えることをせず、誰か(読者)にわかってもらおうとする努力も怠り、ただ思ったことを書き殴るだけの文字列になるだろう。

そうしてけっきょく書くことが嫌になり、書かない日が増えていくだろう。「きょう、書かなかったんだね」と言ってくれる読者もおらず、こちらを見てくれている目も存在しないのだから、すぐに書かなくなるだろう。

考えれば考えるほど、自分に日記はむずかしそうだと思えてくる。


誰に読ませるでもない日記だからこそ「ほんとうの自分」を出せる、という考え方もあるだろう。他者の目を意識して書いた文章は、どうしても「ほんとうの自分」から離れていくのだと。けれど、ぼくの考えは違う。たとえるならこれは、ドレスコードのようなものなのだ。

全裸で往来を歩くことはできない。誰もいない夜道でもダメだ。そこに誰かがいる可能性があるかぎり、パンツを履き、服を着る必要がある。さらにそれがパブリックな時間と空間であれば、もう少し厳格なドレスコードが求められ、たとえば短パンやダメージジーンズは NG になったりする。

私的な日記に書き綴られるのは、全裸で道を歩くような言葉だ。そして人目に触れる文章には、なんらかの服が着せてある。社会のなかにおいて、全裸の自分と服を着た自分、どちらが「ほんとうの自分」なのかは意見の分かれるところだろう。少なくともぼくは、裸の自分を誰かに見せたいとは思わないし、自分でも見ていたくない。


若いころ、個性的な服を着てみたり、扇情的な服を買ってみたり、腰からへんなチェーンをぶら下げたり、いろいろしていた。いまはそのような服にあまり興味がなく、シンプルさ、清潔感、つくりの確かさ、品のよさなどが、服選びの基準になっている。考えてみればそれは、自分がそうありたいと願う文章の姿とまったく同じだ。

文体は、英語で言えばスタイル(style)。着こなしから垣間見える文体というものもあるのかもしれない。