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ちょっと過剰ななにかがあるか。

たとえばコーヒーを、濃く淹れる。

飲むとはげしく喉が渇く。いや、渇いているのは喉ではない。口腔が、口のなかが渇く。行き過ぎた苦味と酸味がいつまでも口のねばねばに居座り、それを洗い流すために大量の水を必要とする。ありがたいことにうちのオフィスにはウォーターサーバーが設置してあり、新鮮な水には事欠かない。口腔が正常に戻るまで、たらふく水を飲み続ける。

そうするうちに、ふと浅知恵がよぎる。

さきほどおれは濃いコーヒーを飲んだ。そしてその埋め合わせをするようにたくさんの水を飲んだ。いま、胃袋のなかでは両者が混じっている。ならばいっそ、最初から「水で薄めた濃いコーヒー」を飲めばいいのではないか。そうすればこんな面倒くさいステップも踏まずにすむのではないか。

おそらく、それをちょうどいい塩梅で成立させたのがエスプレッソのお湯割りであるアメリカーノという飲みものなのだろう。たしかに合理的である。

しかしながらぼくは別に「ちょうどいいコーヒー」を飲みたかったわけではない。格別に濃いコーヒーが飲みたかったのだ。あとでたくさんの水を必要とすることになろうとも、いま飲みたいのは濃いコーヒー。その原点を見失うと、飲み食いのよろこびはおおきく目減りしてしまう。辛いものが食べたいときもあるし、しょっぱいものがほしいときもある。脂っこいものがほしいときもあれば、さっぱりしたものがほしいときもある。「ちょうどいい」ばかりを求めているわけではないのだ人は。


そこで気づく。ぼくが常連のように通う飲食店はみな、なにかが「ちょっと過剰」なのである。そりゃあ平均的でちょうどいい味のお店も、食べるものに迷ったときには便利だけど、積極的な再訪を促すまでのパワーは欠けてしまう。ふいに食べたくなる「あの店の、あの味」とは、すなわち個性とは、平均からはみ出した「ちょっと過剰」の部分に宿る。だって、それこそが他の店では味わえないサムシングなのだから。


ライターとしてのぼくは「ちょっと過剰」を持っているか。いま進行中の企画に「ちょっと過剰」なそれはあるか。

濃すぎるコーヒーを淹れたせいで水をガブガブ飲んだ、という本日のどうでもいい実話から、そんなことを思ったのでした。