見出し画像

おのれの原油を掘り当てる。

当たり前のようにぼくは、原油を取引したことがない。

さらにいえばおそらく、原油というものを見たこともない。灯油やガソリンであれば見たこともあるし、その匂いを嗅いだこともある。けれども原油のことはよく知らない。やっぱり灯油やガソリンみたいな、ケミカルな酩酊を誘う系のアルコールめいた匂いがするのだろうか。それとも敷きたてホヤホヤのアスファルトみたいな、むせ返るほどに甘黒い匂いなのか。あるいは原油そのものは意外と無臭だったりするのか。とにかくぼくは原油というものについて、ほとんど実際的な知識を持っていない。原油の恩恵を受けまくっているはずの現代人なれど、日常の暮らしにおいて原油そのものを意識することは極めて稀だ。

それでもニュース番組ではしばしば原油の先物取引価格が報じられ、そこではかならず「バレル」という単位が使われる。「原油の先物取引価格が1バレル○○○ドルを突破しました。これを受け、アメリカのFRB、連邦準備制度理事会の○○議長は……」というように。カラットという単位を宝石以外ではお見かけないように、バレルという単位も原油でのみ見聞きする。

ということで本日のテーマは「ばれる」である。「ばれるということ」について書こうと思ったら、どうしても原油のことが浮かび、つまらない駄洒落と知りながらこんな導入を拵えたのである。

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』というぼくのデビュー作に、31刷目となる重版がかかった。刊行から今年で10年。これだけの時を経てもなお、あたらしい読者と出会えていることはほんとうにうれしい。ややクセは強いものの、いいこと、大事なこと、役に立つことの書かれた、すぐれた本だと思う。書けてよかったし、出せてよかった本だ。

それでもやはり、読み返すのは恥ずかしい。書いてあることが拙くて恥ずかしいのではなく、あまりにも「おれそのもの」だから恥ずかしいのだ。

原則としてライターとは取材者であり、ライターは「取材したこと」をもとに原稿を書く。そこでの取材はインタビューかもしれないし、資料の読み込みかもしれないし、現地に足を運ぶことなのかもしれない。いずれにせよライターは、自分の「外部」にあるものを取材し、それについて書く。言い換えるなら自分の「知らないこと」を取材し、知ったことやわかったことを書くのがライターの仕事だ。なので取材中の驚きや発見は、そのまま原稿のおもしろさにつながる。

一方、ぼくにとっての『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は、なんの取材もないままに書いた本だ。自分が思っていること、考えてきたこと、そして実際に自分がやっていることを、ただ整理整頓して書いた本だ。

それゆえ、ほかの原稿以上に自分が出てしまい、読んだ感想としては「おれそのもの」としか言いようのないものになっている。自分大好きな人であればそれも結構だろうが、できることなら自分の姿を見ずに生きていたいぼくのような人間にとって、これは相当の恥ずかしさである。なんというか、読者全員に自分という人間が「ばれる」気がするのだ。

そしてさらに、『取材・執筆・推敲』という本では『20歳〜』で無意識のうちに演じていたキャラさえも脱ぎ捨て、ますます裸になっている。5000バレルだ。


いま、またあたらしい単著の企画を練っているところなんだけれど、今後はますますカッコつけてる場合じゃないだろうなあ、と思っている。かしこぶることも道化を演じることもせず、若ぶることも年寄りぶることもせず、いまの等身大で書いていくしかないんだよなあ、と思っている。どこかの原油をガソリンに精製していくのではなく、おのれの原油を掘り当てるのだ。