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ぼくはコーラを、飲みたかった。

去年か一昨年くらいに読んだ記事だ。

たしかアメリカで、「健康の秘訣はドクター・ペッパーよ」と豪語する長寿のおばあちゃんがいた。ニュースになるくらいの長寿なのだから、100歳を超えていたのかもしれない。「お医者さんはみんな、身体によくないからとドクター・ペッパーを辞めさせようとしたけれど、彼らはみんな先に死んでしまったわ!」。そんな決めゼリフとともに1日1本のドクター・ペッパーを欠かさないおばあちゃんのニュースが報じられていた。

子どものころ、ぼくはコーラが苦手だった。

ラムネやサイダーはかろうじて飲めるものの、コーラについてはどうしても「からい」や「痛い」が先にきて、おいしく飲むのがむずかしかった。いちばん好きなのはりんごジュースで、次にミックスジュース、それからオレンジジュースという順番だった。「ジュース」とコーラは別物だった。

同様に、カラシやわさびも苦手だったし、生姜もダメだった。おとなの語彙でいえばこれらはすべて「刺激物」であり、刺激なんて求めちゃいなかったのだ、ぼくの舌は。

そうしていつしか、コーラを好きになり、カラシやわさびをおいしく思うようになり、生姜も大好きになっていく。甘口のバーモントカレーよりも辛口のジャワカレーをよろこび、より辛いものを求め、刺激を求めるようになっていく。

一般にこれは自然な成長とされ、それぞれのおいしさが「わかる」ようになった、それだけ大人になった、みたいな文脈で語られる。

でも、どうなんだろうなあ。ぼくの感覚からすると、年齢を重ねれば勝手に辛いものや苦いものや酸っぱいものが好きになるわけではなくて、やっぱりどこかの段階で「ああなりたい」があったんじゃないかと思うのだ。

つまり、マスタードをたっぷりかけたホットドッグを食べる大人を見て「ああなりたい」と思ったり、辛口の——やや黒みがかった——カレーを食べる大人を見て「ああなりたい」と思ったり、どっさりおろし生姜をのせた冷奴を食べる大人を見て「ああなりたい」と思ったり、なんらかのあこがれがあって、みずからのあこがれへと手を伸ばした結果、それを好きになっていったんじゃないかと思うのだ。

ほら、コカコーラのコマーシャルって、カッコイイお兄さん&お姉さん方が心底おいしそうにコーラを飲むじゃないですか。飲んだあと「っあぁー!」って言って瓶やグラスを笑顔で見つめるじゃないですか。苦手だったコーラを好きになったぼくは、「ああなりたかった」んですよ、きっと。


ぼくはちびっこや若い誰かから「ああなりたい」と思われるような大人に、なれているのかなあ。コーラの飲みかたひとつでいいから、そう思われるような自分でありたいなあ。なんか、そんなことを思うわけです。今年は若い人たちと接する機会をたくさんつくっていこうとしてることもあって。