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しゃぼん玉のようなことばたち。

たぶんほんとうの年末がやってきたら、もう一度2016年を振り返った話も書くと思うけど、とりあえず。

ぼくにとっての2016年がどんな年だったか、なにが起こった年だったか、いちばんでかいことを挙げるなら、間違いなく「糸井重里さん」の一年、ということになる。ありがたいことにいま、ほとんど毎週のように糸井さんとお会いし、なんでもないような雑談も含め、たくさんのお話を伺っている。こんな日がくるなんて、10年前の自分はおろか、去年の自分だってほとんど信じてくれなかっただろう。あのころの自分に教えてあげたい気もするけど、教えてあげない。人生、そのほうがおもしろい。

そして先日、「小さいことば」シリーズの担当編集である永田さんから、シリーズ最新刊の『抱きしめられたい。』をいただいた。本日発売の、記念すべきシリーズ10冊目の本だ。


読んで、たいそうおどろき、しみじみ唸った。

「これはもう、よくよくほんとに『糸井重里』そのままの本だなあ」と。

糸井さんが1年間(今回の本は2015年分)のあいだに書きつづった「小さいことば」を、長さも、書体も、レイアウトも、てんでばらばらのまま、収録した1冊。文脈をつけることも、かしこまった「はじめに」や「おわりに」を設けることも、意味や意図を強調しすぎることもしないまま、でっかい公園の中空に浮遊するしゃぼん玉のように、ただただ大小さまざまのことばが浮かび、風に流され、やがてぱちんと消えていく。

もちろんこれまでも「小さいことば」シリーズは読んできたのだけど、去年までのぼくは、このシリーズを「日めくりカレンダー」のように読んできた気がする。ふとしたときにぱらぱらめくって、どこかのページで立ち止まって、ことばをしみじみ味わって、また閉じて。通読するにはあまりにもとらえどころのない、不思議な本として味わっていた。

でもなあ。この惜しげもなくぶわぁー、と吹き出されるしゃぼん玉のことばこそが糸井さんなんだし、そのとらえどころのなさこそが糸井さんで、つまりは「糸井重里の本を編む」って、こういうことなんだよなあ。あの書体やレイアウトも、ただの「ぜいたくなあそび」ではなく、あれも含めて「糸井重里の本を編む」なんだよなあ。


もっとも今回の『抱きしめられたい。』には、2015年に逝去された岩田聡さんのお話がたくさん出てくる。これまでの「小さいことば」シリーズとは、やや趣が違うページがたくさんある。かなしさ、さみしさ、くやしさ、いろんな色のしゃぼん玉が吹き出される。岩田さんという友だちを失った糸井さんのことばに、そのしゃぼん玉の表面に、ぼく自身が失ってきたなにかが映し出される。まぶたのはしっこから、涙が滲んでくる。

そして本を読み終える直前、虹色のしゃぼん玉は空高く舞い上がり、ぱちんとはじけた。

糸井さん、永田さん、すばらしい本をどうもありがとうございました。

このシリーズ、できるだけ長く続けてください。