未来よりも知りたいこと。
高校生のころ、「未来学者」という肩書きの存在を知った。
インターネットが誕生するよりずっと以前の話だ。ぼくはそのマンガチックな名称に大笑いした。お茶の水博士的な、あるいは浪速のエジソン的な、意味なく白衣に身を包んだ素性の疑わしいおじさん的な、あまりにばかばかしい名前にゲラゲラ笑った。
その未来学者は、名前をアルビン・トフラーといった。
当時、メディアはおおいに騒いでいた。「あの『第三の波』の未来学者、アルビン・トフラー待望の新刊!」。
思えばぼくの高校時代は、東西冷戦が終結し、ベルリンの壁が壊れ、ソビエト連邦が崩壊し、それに代わる独立国家共同体なる枠組みができあがり、「新世界秩序」なんてことばが語られ、『伝染るんです』にまでシュワルナゼ外相が登場していた、ほんとにほんとの激動の時代である。みんなが「これからどうなるんだ」を知りたがり、「これからこうなる」を語りたがっていた。
ブームに乗って、ぼくもアルビン・トフラーの新刊『パワーシフト』を手に取った。分厚いハードカバーを、ちょっとだけ賢くなったつもりで読んでみた。
で、当時の自分を振り返って、いま思う。
あのころぼくは『パワーシフト』の内容が、ほとんど理解できなかった。言ってることはわかるし、背伸びして引用してみたくなる文言もたくさんあるんだけど、なんだか腑に落ちない。ばかだったのかなぁ、と思うし、ばかだったのだろうし、それでも「ばか」だけじゃ足りない理由が、そこにはあった気がする。
結局「未来はこうなる!」の話は、「現在はこうである」を自分のこととしてしっかり認識できていないと、なんにも響かないのだ。少なくともぼくの場合は。そして親のすねをかじって生きる田舎の高校生に「現在」など、わかりっこないのだ。
いまもいろんなところで「未来はこうなる!」が語られていて、それら未来像について「なるほどなぁ」以上の興奮をおぼえきれない自分がいるのだけど、たぶんぼくは未来の前に「現在」が知りたいし、そのためにも「過去」を知りたくなっちゃう人間なんだろうな。
ぼくが古典を読んで興奮するのは「こんなに昔の、時代も国も環境もまったく違う人たちが、今日のおれとおんなじことで悩んでる!」との遭遇だったりするし。
これ、歴史ものが好き、っていうのとも少し違うんです。「変わらないこと」が好きというか、ぼくはそこを見つめて本をつくっていきたいなあ、と思っているんですよね。