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なぜ人は嘘をつくのか。

嘘について考える。

もしかしたらぼく自身、これで将来一冊の本を書こうとするかもしれないくらい、おおきなテーマだ。きっかけは、先日おこなわれた Clubhouseでの公開対談である。せっかくの Clubhouseということで対談の終盤、聴いてくださっていた方々からの、質問を受けつけるコーナーが設けられた。

すると、『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』で有名な公認会計士の山田真哉さんから「インタビューをしていて、こういう人は困るなーって人は、どういう人ですか?」との質問が飛んできた。とっさにぼくは「言うことを事前に決めていて、その枠から一歩もはみ出さない人は困りますねえ」みたいなことを答えた。うん、いま考えてもその答えは間違っていない。自分にアドリブを許さない人との話は、なかなか盛り上がりづらいものだ。

けれど、それよりなにより困る人がいた。Clubhouseの収録終了後に思い出した。嘘をつく人だ。いろんなところに嘘を、ちりばめる人だ。ああ、あのとき「いちばん困るのは、嘘をつく人ですねえ」と言えばよかった。とっさに言えなかったということはつまり、まだ自分のなかで(嘘についての)考えが足りていないのだろう。……ということで、考えてみた。


かつて、『私は嘘が嫌いだ』という本があったけれど、ぼくも嘘が苦手である。いや、もちろんぼくだって嘘をつくことはある。方便として必要な嘘も存在する。そもそも創作という行為が嘘であり、創作の字に「うそ」とルビを振ってもいいくらいだ、との考え方だってあるだろう。しかし、そういう人間らしさや社会性、創造性に基づく嘘ではなく、虚言癖としか言いようのないくらいの頻度で、どうでもいい嘘をつき続ける人がいる。なにかと話を「盛る」人は、その代表的な例だ。

ただ、自覚的に嘘をついている人は、意外と少ないのだろうな、とも思う。たとえば悪徳商法の代名詞みたいに語られる、「高齢者に高額な羽毛布団を売りつけるセールスマン」。彼らとてセールスしている最中は、つまり羽毛布団の素晴らしさを語っている最中は、本気で「この羽毛布団は素晴らしいんです! おばあちゃん、あなたの健康のためを思って、わたしはいまこれをオススメしているんです!」と思っているはずだ。そうでなければバンバン売上を伸ばすことなどできない。あるいは若き日の武勇伝などについて話を「盛る」人にしても、語っている最中は「盛って」いる意識などなく、むしろ本気で「俺は最強のワルだった」とか「飢えた狼のように眼をギラギラさせて夜の街をうろついていた」とか語ってしまうのだ。自分が嘘をついている自覚は、ほぼ皆無だと思われる。「いま自分は嘘をついている」と思いながら堂々と嘘を語ることは、じつは相当むずかしい。ことばとは、たとえ瞬間的であってもそれを信じているから、淀みなく語られるものだ。

とすれば結局、嘘つきな人は「信じやすい人」なのだとも言える。だからこそネットワークビジネスや新興宗教がねずみ算式に広がっていくのだ。誰かの嘘を信じてしまった「信じやすい人」が、みずからの語る嘘を信じながら別の「信じやすい人」を勧誘していく、という構図によって。

ここからさらに考えを進めていくと、嘘つきな人、つまり信じやすい人とは結局、「さみしい人」なのかもしれない。怪しげな人物や商品や言説や記憶の改竄を「でも信じたい」「嘘だと思いたくない」と考えてしまうのは、考える力の弱さというより、不安や心細さ、さみしさゆえのことに思われる。

保身のためにつかれる嘘、虚勢としてつかれる嘘、嘘にはいろんな種類があり、一概にこうだと断言することはできない。なにしろこれは、まだ考えはじめたばかりのテーマだ。

けれどもやっぱり、嘘を必要としない、さみしさに負けない人でありたいとぼくは思うのだ。