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山ほどの準備、矢のような想定外。

いまから半年前、東京で夏季オリンピックが開催されていた。

「ほんとに半年前? 1年半前じゃなくって?」と疑いたくなるほどの過日に感じられるものの、最初に思い出す競技といえば卓球だ。男子も女子も、個人も団体も、ずいぶん熱心に応援したし、泣いたり笑ったり大変だった。

一方、あたらしい時代のオリンピックを象徴しているなあ、と思わされたのがスケートボード競技である。競技者としてのプレッシャーや真剣さは当然持ち合わせながらも、たとえば柔道やマラソン競技の選手たちが抱えているような国民的重圧からは完全に解放された選手たち。その軽やかさは、世代の問題というよりも、歴史の問題なんだろうと感じた。

つまり、柔道やマラソンの選手にとってオリンピックとは、「いちばん大事な本番」である。他方、スケートボード競技の選手にとってのオリンピックは「大事な本番のうちのひとつ」に過ぎない。いまの段階ではまだ。そりゃあそうだ。オリンピック柔道には1964年東京大会以来の歴史があるのだし、マラソンにいたっては第1回アテネ大会以来の歴史がある。しかしスケートボードは今大会ではじめて正式種目となったに過ぎず、競技としてまだオリンピックへの思い入れがない。

おそらく今後オリンピックが、視聴率や広告収入を目的にエクストリーム系の競技を増やしていったとしても、そこに「歴史」が育つとは考えにくい。それは若者ウケを狙った紅白歌合戦が、わずかな視聴率と引き換えに「ありがたみ」を失っていったプロセスとよく似ている気がする。


しかし、今後オリンピックの立ち位置がどう変わろうと、「いちばん大事な本番」としてそこに臨む人たちがいる。

実況を担当する、アナウンサーだ。

アナウンサーにとって、オリンピックで実況を担当することは、一世一代の晴れ舞台であり、まさしく「いちばん大事な本番」である。その競技に詳しくないであろう一億人の視聴者に対して、どこまで競技の魅力を伝え、目の前で起こる「!!!」を言葉にしていくのか。

とくにライターの人たちは、彼ら・彼女らの「準備」と「想定外」の交錯に思いを馳せながら、オリンピックを観てほしい。頭がくらくらしますよ。