見出し画像

真に受けないし、傷つかない。

SNS特有の言いまわし、みたいなものがある。

たとえば(承前)という言いまわし。文字数制限のあるツイッターの世界で、長い文章でなにかを書こうとするとき、それが連続した文章であること、前後の文脈を踏まえて読んでいただきたいこと、などを表す言いまわしだ。以前、このことばをツイッターで最初に使いはじめたであろう方とお話ししたのだけど、たしかに大事な、おおきな発明だよなあ、と思う。

それから「自戒をこめて」の言いまわし。なにか世間にものを申したいとき、とくにダメな人びとをお叱りするような内容を投稿するとき、末尾に「自戒をこめて」のひと言をつける。これによって「お前はどうなんだ」の反発をうまくかわそう、自分を棚に上げてしまおう、という魂胆も、いじわるな見方をすればできてしまう。

という、どうでもいい話からはじめたのは、自分で自分のことを「おれは自戒のひとだなあ」と思ったからだ。自戒のひと、もしくは「戒めのひと」と言ってもいい。


たとえば、編集者が原稿をほめてくれる。読んでくれたひとがほめてくれる。けれどもそれを、そのまんまの額面どおりに信じるほどウブじゃない。そこでの「ほめ」には、ねぎらいやら礼儀やら、場合によってはやりすごしやら業務やらが含まれているやもしれぬことを、あたまの片隅に置いておく。いつでも「もっとおもしろくできたはずだ」「もっと丁寧にできたはずだ」と自分を戒める。ほめことばを真に受けて、調子に乗ることがいちばんこわい。

しかし一方、けなしのことばも、あまり深刻に受け止めない。ひとは、傷つこうと思えばいくらでも傷つくことのできるものだ。ちいさな傷を、いつまでも痛がることのできるものだ。ひとは、業務的なほめことばと同じくらい無邪気に、悪意のことばを投げつける。そこでいちいち傷ついているほどヤワでは、やってられない。「傷つきやすいひと」は、いつの間にか「攻撃的なひと」になっていく可能性が高く、そうなるとほんとに味方がいなくなる。


「それ」を真に受けるほどウブじゃない。
「それ」に傷つくほどヤワじゃない。


とくにSNSの空間では、そういう態度でいることがいちばん健康的じゃないのかな。