ドストエフスキーと口述筆記。
きのう、なぜかドストエフスキーの話になった。
糸井重里さん、加藤貞顕さんと一緒にお昼ごはんを食べ、店を移動してだらだらとコーヒーを飲んだそのひとときに、なぜかドストエフスキーの話になった。「なぜか」というのはちょっと嘘で、理由ははっきりしている。ぼくがドストエフスキーTシャツを着ていたからだ。話はドストエフスキーが苦しまぎれに採用した、口述筆記に移った。
ドストエフスキーの著作のうち、少なくとも2冊は確実に口述筆記で書かれたとされているものがある。『罪と罰』の後半部分と、『賭博者』だ。
とくに『賭博者』は、ルーレット賭博ですっからかんになったドストエフスキーが出版社から多額の原稿料を前借りする際、締切を破ったら過去作の著作権を5年だったか7年だったか出版社側へ譲渡する、というむちゃくちゃな契約を結び、しかも締切まで残り1か月を切っているのに一文字も書いていない、というおよそ他人事とは思えない苦境に追い込まれたとき、ソニアという女学生の速記者を雇ってどうにかこうにか口述筆記で書き上げた作品だとされている。そして20歳ほどの年齢差があったふたりはこの作品を通じて恋に落ち、結婚したのだと。
その後の『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などは、それなりに準備を重ねて書かれた長編なのだけど、ぼくはこれらの作品もかなり口述筆記に近いかたちが用いられたのではないかと踏んでいる(ちなみにぼくは大学でロシア文学を学んだ人間ではないし、学術書もそれほど読み込んでいないので、そのへん「予想」でしかないのだけど)。
というのもドストエフスキーの作品は、情景描写がきわめて少なく、そして下手だ。彼の真骨頂はクレイジーな状況に追い込まれたクレイジーな人びとの饒舌な台詞の応酬であり、あの躍動感は口述筆記というスタイル(もしくはプロセス)があってこそ、生まれたものではないかと思っている。
すると糸井さんが「それはわかるなあ」とおっしゃった。
「目の前に聞いてくれる人がいると、『この人を驚かせてやろう』とか『こいつを喜ばせてやろう』とか『ここでもっと笑わせてやろう』とか、ひとつひとつのリアクションを見ながら書いていけるし、それはほんとうにありがたいんだよ。目の前にお客さんとしての速記者がいるのは」
糸井さんは、『MOTHER2』と『MOTHER3』でそのスタイルを採用し、おおいに助かったのだという。
帰宅後、任天堂の宮本茂さんによる、CEDEC2018・基調講演のレポートを読んだ。そのなかで宮本さんは「どうやってアイデアを出すのか」についてこんなふうに語っている。
「振り返ると、誰しもアイデアはふだんから考えているんですよね。それをよいアイデアだと思うか、いまいちだと思ってボツにするか。それだけのことなんです」
ああ、なるほど。ぼくはひとり得心した。ドストエフスキーとMOTHER、そして宮本茂さん、さらには(ここに並べる僭越さは重々承知しながら)自分の仕事が、一本線でつながった気がした。
ライターの仕事は、かなり口述筆記に近い。するどい質問を矢継ぎ早に投げかけ、相手の懐に切り込んでいくのはジャーナリストやインタビュアーの仕事で、ぼくはライターを徹底した「聞き役」だと思っている。
ただ、相手の話に耳を傾けるなかで「いまの話はおもしろい」とか「その話はよくわからない」とか「いまの冗談はあまり笑えない」とか「それ、もうちょっと深いところまで聞きたい」とかのリアクションを(ことばにしない反応も含めて)返すことが、取材におけるぼくらの価値なんだろうなあ、と思っている。宮本さんの言を借りるなら「それをよいアイデアだと思うか、いまいちだと思ってボツにするか」を、ひとりの聞き役として返すことが。
そしてこのとき大切になるのはやはり、「誰しもアイデアはふだんから考えている」という敬意と信頼だ。言い換えるとそれは「誰しも『語るべきなにか』を持っている」ということでもある。