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そうあることと、そうなること。

もともとぼくは、体育会系の文化に染まって生きてきた人間である。

体育会系の人間を「先輩からかわいがられるヤツ」と「後輩から慕われるヤツ」のふたつに分けるとするなら、ぼくは断然前者だった。先輩からかわいがられるタイプだった。血縁的な事実として次男であるぼくは、弟キャラとして男子校の体育会を生き抜き、孤立無援な20代のフリーランス時代を生き抜いてきた。腰を低くし、「まじっすか!」「やばいっすね!」「さすがっす!」みたいな調子で生き抜いてきた。

それで30代の前半ごろ、ふと考えた。

おれはいつまで、この弟キャラで生きていくのだろうかと。

もともとふんぞり返って威張り散らしたい人間ではない。弟キャラで生きていくのはラクだし、性に合っている。けれどもライター人生も10年を越え、共に仕事をする編集者たちも年少の方々が増えてきた。いつまでも軽薄な弟キャラで生きていくのは、無駄に向こうの不安をあおることにもつながりかねない。もう少しどしっと構え、頼りがいのある男を演じたほうがいいのではないか。ぺこぺこ腰を低くしたままではいけないのではないか。


それをぼくは「中腰の男」と呼ぶことにした。

腰をかがめて生きるのではなく、ふんぞり返って生きるのでもなく、姿勢としては中腰。ほんの少し腰を曲げて、なおかつ卑屈にならず、一定の自信を持って人と接する。どんな難問をぶつけられても、おれに任せれば大丈夫っすよ、くらいの温度で生きていく。そう自分に言い聞かせて30代半ばからの10年を生きてきた。どれくらい守れているかはともかくとして。

威張る、ドヤる、イキる、オラつく。アドラー心理学的な発想でいうとそれらはいずれも、不安のあらわれだ。自らの不安や弱さを覆い隠すため、つまりは劣等感を覆い隠すために人は、威張ったりドヤッたりする。そうしないと負けてしまいそうな自分を、無意識のうちに察知しているのだ。


ぼくの尊敬する先輩たちはひとりとして、威張ったり、ドヤッたり、その他もろもろの「圧」を発しない。威張ってみせる必要がない、ともいえるのだけど、自分もそうありたいなあと思う。「そうありたい」は大事なことで、ちゃんと願っていれば「あれる」はずだ。自然のうちに「そうなる」ことはむずかしくとも、常に「そうあろうとする」ことは自分の意識次第だ。

そして、意識的に「そうあろうとする」ことを続けていけば、きっと「そうなる」のである。