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レア肉をめぐる情報戦。

昨夜は、キムチ鍋を食べた。

わが家ではキムチ鍋を、めったに食べない。実際、つくったのは5年ぶりとか6年ぶりとか、それくらいぶりのことだ。下手なキムチを買ってしまうと酸味のつよいばかりの鍋になること、そしてすぐに煮詰まってしまうこと、部屋が臭くなってしまうこと、などがご無沙汰の理由である。

一方で鍋そのものは、よく食べる。とくにこの季節だと、週に一回以上はかならず鍋を食べるようにしている。楽だし、おいしいし、飽きないし、野菜がたくさん摂れる。なんなら今晩だって鍋でもいいくらいだ。

学生時代にぼくは、博多のしゃぶしゃぶ屋さんでアルバイトをしていた。貧乏な学生にとってそれは、こんなにうまいものがこの世にあるのか、と驚くほどの料理だった。そのため卒業後も10年くらいは、牛肉のいちばんおいしい食べ方はしゃぶしゃぶであり、あらゆる鍋料理のなかでも最強なのはしゃぶしゃぶだと信じて疑わなかった。

しかし、年齢を重ねるにつれてしゃぶしゃぶはビールに似てくる。

つまり、「最初の一杯」や「最初のひとくち」のうまさで言えば相変わらず最強なんだけれども、何杯も飲み続けたり、何枚もの肉を食べ続けたりするとちょっと、胃や舌が疲れてくるのだ。

しかもしゃぶしゃぶには「しゃ〜ぶ、しゃ〜ぶ、して食べるんだよ〜」なる常套句からもわかるように茹ですぎ厳禁の呪いがかかっていて、脂を満足に落とさないまま食べることが推奨される。これは同じ牛鍋料理であるところのすき焼きとおおきく異なる点で、使用される調味料(醤油や砂糖)だけでいえばずっと重たいはずのすき焼きのほうが、ちゃんと脂を落とした状態で食べるぶん、最後までおいしく食べられたりする。

で、思うのだ。

たとえばちょっと高級な焼鳥屋さんに行く。ものすっごいレアで焼き上げたささみ肉が出てくる。なんなら生肉そのものを出すお店もある。うちの肉はこんなに新鮮なんだ、という自慢なのだろう。でもこれ、料理として考えたときに、ほんとにおいしいのだろうか。鮮度がいいその肉を、ふつうに焼くほうがおいしいんじゃないだろうか。鮮度のよさをアピールせんがために、大事なことを忘れていないだろうか。

しゃぶしゃぶだってほんとうは、もう少しお湯にくぐらせて、ある程度の脂を落としてから食べたほうがおいしく食べられるのだと思う。しかしそれをすると「いい肉は一瞬くぐらせるだけで十分なんだ」「そもそも生でも食べられるくらいなんだから」「ま、きみは安い肉ばかり食ってるから知らないだろうけどさ」みたいなお叱りや嘲笑にさらされることが目に見えていて、実行できない。もちろん「こんなにいい肉なのだから、火を通しすぎるのはもったいない」との躊躇も、自分のなかにはある。

「レア(生)でも食える」ことと「レアのほうがおいしい」は、かならずしも一致するものではないし、「レアのほうが貴重」ではあったとしても、火を入れたほうがおいしいもののほうが多い。牛肉も、鶏肉も、たとえば牡蛎なんかにしても。

もしもその貴重さゆえにレア(生)のほうをおいしく感じるのだとすれば、まさしくその人は「情報」を食べているのだ。まあ、情報を食べることができるのも人間の特権ではあるけれど。