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理想の打ち合わせを考える。

一度会ったはずの人を、すぐに忘れる。

名刺を交換して、その場で何度も顔と名前を確かめて、なんなら打ち合わせのあいだ「○○さんは〜」とその名を呼んでいたにもかかわらず、忘れる。数週間後に名刺を見返しても、ほとんど顔が浮かばない。そして後日、なにかの席で「はじめまして」と名刺を差し出すと、「前に一度お目にかかってるんですけどね」なんてひと言を添えられる。面目がない。

どうしてこんなに記憶力が弱いのか。

思い返せば中高時代、暗記科目は苦手だったような気がする。しかし実際には勉強全般が苦手だったはずで、暗記それ自体が苦手だったわけではない。そしてたとえば子どものころに好きだった外国人プロレスラーの名前などは「狼酋長:ワフー・マクダニエル」「南海の黒豹:リッキー・スティムボート」みたいな感じで、そのニックネームとともに憶えていたりする。一概に記憶力が弱い、とも言えなそうだ。

だとすればよく言われるように、人の顔や名前を「忘れてしまう」のではなく、「そもそも憶えようとしていない」のかもしれない。

じゃあ、どうして憶えようとしないのか。憶えよう、と努力しないのか。


相手のことを軽んじ、お前なんか憶えるまでもないザコキャラだ、と思っているわけでは、決してない。むしろ相手を尊重しすぎた結果として憶えられないのだとも言える。いったいどういうことか。

はじめての人と挨拶する。仕事の打ち合わせなどで、挨拶する。名刺交換したりする。失礼があっちゃいけないな、と軽く舞い上がる。背筋を伸ばし、いつもより少しだけ大きめの声で、仕事仕様の自分を演じる。

打ち合わせとは「交換」の場である。

互いが持っている要望を、情報を、過去の経験を、そしてアイデアを交換し合う場が、打ち合わせである。いま、自分は相手の期待に沿うだけのなにかを提供(交換)できているのだろうか。これを有意義な打ち合わせとするべく、もっとすばらしいアイデアを思いついたり、記憶を引っぱり出したりできないか。そんなことで、あたまがいっぱいになる。

結果、相手と打ち合わせしているというより「場」と打ち合わせしているような状態になり、「おれはこれで大丈夫なのか?」ばかりを気にする自分になり、目の前にいる相手のことを憶えきれなくなるのだ。


ただ、それもこれも「自分のことをおもしろいやつとして記憶してほしい」の欲からきている焦燥で、たとえそれで打ち合わせが前に進んだとしても、ほんとうにいい打ち合わせとは言えないだろう。だって、「交換」が存在しないのだから。しゃべろうとするばかりで、聴こうとしていないのだから。

参加者全員が「おもしろい話がたくさん聴けたなー」となる打ち合わせ。それこそが理想の打ち合わせであり、それさえできれば、みんなの顔と名前も憶えられるような気がする。

お互いがお互いの顔と名前を記憶できない打ち合わせは、それぞれがぞれぞれにしゃべりすぎているだけなのだ。交換ではない「おれの意見」を。