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感じているか? 考えているか?

先週、いや、あれはもう先々週だったのか。

見苦しく伸びきった髪をカットすべく、床屋に行った。鏡に映る美容師さんとのフリートークが苦手なぼくは以前、床屋に行く際はかならず新書を携帯し、それを熟読することを常としていた。しかし時は流れ、文明の利器も発達した現在、いやな感じの客だろうなあと申し訳なく思いつつ、散髪中はずっとスマホのKindle本なんかを読むようになった。

散髪を終え、扉を開けて店を出ると、新鮮な風が耳元を通り抜ける。「ああ、気持ちいいな」と髪を触り、その短さと軽さに胸を躍らせる。わるい膿をぜんぶ出し切ったような、よごれた垢をすべて洗い流したような、不思議なデトックス感とともに道を歩く。

よし、この感じを憶えといて、明日のブログに書こう。

そう思いついたはずなのに、帰宅後しばらくすると髪の軽さにも慣れ、風呂に入ればすべてを忘れ、けっきょく書かないまま今日に至っている。いま、あのときのワクワクを思い出そうとしているけれど、たぶん半分も思い出せていないし、書き起こすことができない。


いい本を読んだときのこころの震え、見事な映画を観たときの胸の高鳴り、美しい絵画に触れたときの魂が洗われる感じ。それらはいずれも大切なものだけれど、ほんとうの感性とは、髪を切ったときだとか、あたらしいスニーカーを履きおろした瞬間だとか、その年はじめてのスイカを食べたときみたいな、日常のちいさなこころの揺れを通じて、育てられるような気がする。

なにも感じてないはずはないんだから、自分がなにを感じているのか、もっと興味津々にルーペで覗き込むこころというか。

もっとたくさん、もっとゆたかに感じられるはずの日常のいろんなことが、どうも最近「作業」になってきている気がして、よくないなー、気をつけなきゃなー、と思ったのでした。