見出し画像

金曜日の美容院にて。

だいたいにおいてぼくは、人をちゃんと見ていない。

女の子が髪を切っただとか、今日はメイクがばっちり決まっているだとか、そういうものをほとんど見ていない。ぼわっとした全体像と、せいぜい瞬間の表情を見るくらいで、髪だの服だのメイクだのの変化に、ちっとも気づかない。相手が女の子であってもそんな調子なのだから、男の子(おじさん含む)の変化など、気づくはずがない。見るはずがない。


先週末、久しぶりに美容院に行った。

いつものお兄ちゃんが出てきて、軽く挨拶を交わしたあとに髪を切りはじめる。「伸びたぶんだけ切ってください」と言ったまま、あてがわれた雑誌に目を落とし、念入りに読み込むわたし。雑誌一冊(その日は『BRUTUS』だった)を読み終えるまでに散髪を終えるのが、いちばんの理想だ。

美容院の雑誌といえば、10年くらい前まではだいたい『MEN'S NON-NO』や『smart』など若向けの雑誌をあてがわれたものだけど、いつのころからかこれが『MEN'S CLUB』や『LEON』になってきた。きっとそう遠くない将来に『一個人』とか『サライ』とかをあてがわれるようになり、いつしか『爽快』や『歴史街道』をあてがわれるおれになるのだろう。

というか、いま通っている美容院に『爽快』は置いてあるのだろうか。


なんて脱線をしつつ、えーと。

髪を切り終え、シャンプーも終わり、髪を乾かして整髪料なんかをつける段になって美容師のお兄ちゃんが切り出した。


「……あの、心配しなくていいっすからね」


はい? 日ごと増え続ける白髪のことだろうか。あるいはまた、最近真剣にAGA治療を考えている薄毛のことだろうか。だとすればちょっとそれ、失礼な励ましじゃないか。こちらからの相談があってはじめて「大丈夫っすよ」とか「心配する必要ないっすよ」と答えるべき話じゃないのか薄毛は。

いぶかしげに視線を上げると、鏡のなかに激やせしたお兄ちゃんが立っていた。記憶のなかでは関脇時代の保志(八角理事長)みたいな体型だったはずの美容師さんが、超スリムなイケメンボーイになっていたのだ。


「これ、ダイエットですから。この2か月でダイエットして、15キロくらい痩せたんです」

……前後の脈絡を把握するのに2秒ほどの時間を要したものの、お兄ちゃんの話はこういうことだ。わたしが激やせして、びっくりしただろう。もしかしたら健康を害した結果ではないかと、心配したかもしれない。それゆえ失礼があってはならぬと、見て見ぬフリをしてくれていたのかもしれない。でも、これは意識的に、健康的にダイエットした結果の激やせであって、決して「触ってはいけない」話題ではないので、ぜひとも安心してほしい。

そういうことを、お兄ちゃんは言ったのだ。


ああ、ごめんよお兄ちゃん。

ぼくは思った。ぼくはお兄ちゃんのことをきょう、いまのいままで全然見ていなかったし、言われるまで気づかなかった。髪を切られる自分さえ、鏡で確認しようとしなかった。

そしてまた、「ことばにすること」で相手を傷つけることもあれば、「ことばにしないこと」、すなわち「見て見ぬフリをされたと思わせること」によって傷つく心もたくさんあるのだ。

なんでもことばにすればいいってもんじゃないし、黙ってりゃいいってものでもない。沈黙もまたおおきなメッセージであり、ぼくらは常にたくさんのメッセージを交換しているのだ。自分が意識していなくても。