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同業者たちへの自然な敬意を。

漫画家さんは、お互いのことを「先生」と呼ぶ。

手塚先生、赤塚先生、萩尾先生、みたいな神さまたちのことはもちろんのこと、ベテランの漫画家さんが若手の漫画家さんを呼ぶときにも、公の場では「○○先生」とつける。ソーシャルメディア上で、そのやりとりをよく見かける。

小説家が互いに「先生」をつけて呼ぶ姿は、ほぼ見かけない。よほどに私淑しているときにはそう呼ぶのかもしれないけれど、うーん。たとえば大学に籍を置く文芸評論家の方々はかろうじて「先生」呼びされるのだろうか。とはいえそれは教職者に対する「先生」であって、作家としてそう呼んでいるわけではないだろう。

ではどうして漫画家の世界に「先生」文化があるのだろうか。第一に、漫画誌に載っている「○○先生に励ましのお便りを送ろう!」のコピーは、かなり影響しているだろう。そして漫画は、作家とアシスタント集団のチーム制で制作されることが多く、その師弟的な関係性から「先生」の呼び名が生まれたり、ひとり立ちした漫画家さんを「先生」と呼ぶ習慣が根づいたりしたのかもしれない。いや、まったく知らないまま当てずっぽうに書いているのだけれども。

ただ、それよりなにより感じるのは、漫画家さん同士の自然な敬意だ。

漫画を描くことは苦しい。ひとつの話を描き上げることさえ至難の業で、それを続けていく(連載していく)ことなんて、言語を絶する苦闘の日々だ。どんなに絵がお粗末であっても、設定が陳腐であっても、展開が支離滅裂であっても、描き、描き上げ、描き続けることの大変さを知り尽くしている同業者として、あなたの毎日に敬意を示したい。そういう思いが自然に、互いを「先生」としているのではないだろうか。


ぼくとて本を書く人間として、それが小説であれ実用的な本であれ、一冊の本を書き上げることの大変さは十分に知っているつもりだ。そして書く人間だからこそ、だれかの本を読んでいて、手を抜いた箇所や稚拙な箇所、嘘やごまかしが混入した箇所などはどうしても目についてしまう。もうちょっとしっかりやれよ、みたいに思うことも当然ある。

でもなあ。そういう職業人としての諸々をいったん横に置いて、「先生」と呼び合う漫画家さんたちみたいな敬意のありかた、自分もめざしていきたいなあ、と思うのだ。同業者に甘すぎると、そこでの褒め合いをしすぎると、みっともよくない内輪ノリになっていく。けれども、同業者に厳しすぎるのもまた、あまりよろしくない。自分を上手にねぎらうためにも、同業者への自然な敬意を忘れないようにしたいのである。