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タイムラインから遠く離れて。

この人はソーシャルメディアの使い方がうまいなあ。

そう思える人を、何人かフォローしている。ここでの「うまい」とは、インフルエンサーとしての技術、拡散力にすぐれたさまを指すものではなく、とてもたのしそうにソーシャルメディアを使い、フォロワーさんらをたのしませている人たちの態度のことだ。

その人らの投稿は、だいたいおもしろい。目にするとうれしくなる。文章がうまいのは大前提として、もうすこしなにか、共通項があるのではないか。きのう風呂に入りながら考えた。そして、うん。シャンプーが終わるころに気がついた。


この人はいいなあ、好きだなあ、と思わせてくれる人たちはみな、「タイムラインと関係ないこと」をしゃべっている。

タイムラインで話題になっていることにコメントをつけたり、そこに乗っかってなにかを言ったりするのではなく、まったく関係のない「さっき(現実世界のなかで)見たこと」や「(現実世界のなかで)きょう聞いたこと」をしゃべっている。

ついさっきまで現実世界のなかであれこれしていて、あまりにおもしろかったものだから思わずスマホを手に取り、「ねえねえ! ちょっと聞いて聞いて! さっきさあ!」としゃべり出したような勢いが、そこにある。

逆にいうと、スマホを片手にじっとタイムラインを追いかけているのではなく、思考や感情の軸が、ちゃんと「生活」のほうに置かれている。スマホもソーシャルメディアも好きなんだけど、おしゃべりも大好きなんだけども、ちっともそこに依存していない。現実がちゃんとたのしい人なのだ。


ツイッターの仕様が変わったこともあって現在、だれのタイムラインにもたぶん、さまざまな情報が流れている。その流れを追いかけていくだけで、これまたさまざまな感情が頭をよぎる。そしてそのまま、自分の意見や感想、思ったことをつぶやく。しかしそれは、タイムライン発の感情であり、思いであり、固有の生活実感に乏しい。だれのどの話もどこか、似たようなものに映ってしまう。

現実世界のなかでおもしろおかしく豊かな生活をしている人の声を、ぼくは聞きたいんだろうなあ。ツイッター上で「いいなあ」「好きだなあ」「いてくれてありがたいなあ」と好感を寄せる人たちの投稿を思い浮かべるほど、そう思うのだ。