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働き人のアイデンティティ。

ほのかなあこがれもあってか、スーツについて考えることは多い。

ファッションとしてのスーツおよびネクタイを、ぼくはとても好ましいものだと思っている。たとえばワールドカップ開催国から帰国する際のサッカー日本代表。空港に降り立った彼らが着ているオフィシャルスーツ。長身でスタイルがよく、ワールドカップを通じて好感度が爆上がり中の面々が着ているだけあって、非常にかっこいい。ヒューゴ・ボスがスポンサーを務めていた当時、ぼくは思わず同じモデルのスーツを買い求めてしまったほどだ(似合わなかったけれど)。

自分もスーツを着る職業であったなら、それなりにいいスーツを何着もあつらえただろうな、と思う。贔屓の店を持ち、イタリアのあそこの布地がいいんだとか、こういうラインでこう仕立てるのが気持ちいいんだとか(いや、知識ゼロなのでボキャブラリーがでたらめなのだけど)、自分の流儀を育てていったのだろう。公の場で、しかも毎日着るものだけあって、そこになんらかのアイデンティティが宿るように思うのだ。

しかしながらぼくはスーツを着る職業に就いておらず、たとえばきょうも運動部の休日みたいなパーカーを着ている。そして、どうだろう。2000年前後のITブーム以降、一般的な企業においてもスーツ以外の服装で可、というところが多くなり、むかしほど「みんながスーツ」ではなくなってきているように思われる。

それはそれで多様性。まったくけっこうな時代の移ろいなのだけれど、問題はあれだ。アイデンティティだ。それまでスーツや靴やネクタイにアイデンティティを宿していた人びとは、どこにそれを求めるのだろうか。


案外とぼくは、名刺じゃないかと思っている。

名刺なんかいらない、名刺交換なんてかったるい、資源の無駄だ、デジタル化を進めろ、という声はよく聞くし、ぼくも半分くらいそう思う。そしてここでの「半分」は非常にわかりやすくて、名刺をもらう側に立って考えたとき、名刺はほんとにいらない。捨てるのも忍びないし、ファイリングするのも手間だし、どうせメールやメッセンジャーでのやりとりがメインになるのだし、あの紙を交換し合う文化は、いつまで続くのかと思う。

一方、名刺を配る側、いや「つくる側」に立って考えたとき、名刺はとてもシンボリックな「わたし」の分身である。はじめて支給された(自分の名前入りの!)名刺はとてもくすぐったくてうれしいものだし、フリーランスになったり、起業したりでつくった名刺なんて、ほんとに「わたし」そのものだ。

事実、先に述べた2000年前後くらいから自身の名刺に手間をかける人や企業は急増し、デザイン、紙質、(活版など)印刷方式など、これでもかというほど凝った名刺を目にする機会が増えている。いやまじめな話、むかしの名刺はもっと味気のない、ぺらぺらなものでしたよ。カラーでさえめずらしいくらいで。

なのでまあ、デジタル化やペーパーレス化が進んでいってもまだしばらくのあいだは、名刺文化って残る気がするんです。もはや名刺って、自分の現在地をたしかめるためにつくっているようなものですから。